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好きか嫌いか、ただ それだけ、か?

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いつのまにか あぜ道から彼岸花が消え、いまは どこからか キンモクセイのいい香りが漂っています。
もう すっかり秋。


ふた月のあいだ、このブログ欄を 開いては閉じ 開いては閉じ してました。
7月末の佐世保高1女子殺害事件、8月の豪雨災害、9月の神戸・長田区小1女児死体遺棄事件・・・
言ってはいけない いや何も言えない と、あるときは ものすごく怒って、あるときは ものすごく悲しんで、そんな書きかけの下書きばかり。

ものごとには、必ず表と裏があります。
表から見て正しいと思われることも、裏側はひどく汚れていたりします。
たとえば、日本の経済を立て直すには デフレスパイラルから抜け出さねばならないと 円安誘導に走った政策は、一部の輸出関連大企業ばかりを豊かにして、その恩恵に浴さない階層の懐を締め上げています。
大企業が儲かれば 日本全体が豊かになる という構図は、もう ひとむかし前のことでしょう。

そもそも ほんとうの豊かさとは 何なのか、わたしだけでなく いまを生きる人々のこころに、明快な答えのない 迷いが生じていることは、疑いありません。
老後破産という言葉を耳にするたびに、また 身近に破産老人に等しい人たちに接するたびに、こんなことしてていいんかな と思わざるを得ない自分もあります。

何が正しくて 何が間違っているのか、情報量ばかり肥大して 手がかりすらつかめない現状を、とてももどかしく思います。
果たして、正誤・善悪の判断など、一個人が下せるのでしょうか。
一個人が感じ得るのは、理屈ではない、好きか嫌いか、ただ それだけなのではないか。


松竹映画 『柘榴坂の仇討』をみました。

仇討の主人公・志村金吾(中井貴一)と佐橋十兵衛(阿部寛)のせめぎ合いが、やはり この映画のみどころです。
彦根藩下級武士の金吾が 主君・井伊直弼(中村吉右衛門)を桜田門外の変で警護しきれなかった仇を、明治維新後の13年後に出会えた仇敵・佐橋十兵衛を相手に、柘榴坂でどう果たすか・・・

江戸から明治への ことに武士にとって天地がひっくり返るような時代の変化の中で、13年ものあいだ 何を支えに生きてきたのか。
ともに耐えた妻セツ(広末涼子)の存在は、言わずもがな でしょう。
でも やはり、主君・井伊直弼が大好きだったから、と思うのです。

直弼を演じる吉右衛門のオーラが、映画をみるものに 直弼大好きという金吾の気持ちを 自然に合点させてくれる、これが この映画のキーポイントだと、わたしは感じました。
「義」という道義的義務だけで、激動の13年を生き通せる、とは思えない。
井伊直弼に対する強い敬愛のこころが、頑なで凜とした生き方を、金吾に果たさせた、と思うのです。


ところで、好きか嫌いか ただそれだけでいいのか。
それしかない、と迷い込んでいたわたしは、そのひとつの答えを、この映画の仇討ちの場・柘榴坂のシーンでみた気がします。

人力車に乗る金吾、人力車を引く十兵衛、お互い相手の命運を握る位置で、ふたりの男のこころとこころの火花が散ります。
十兵衛は、いつか仇討にやってくるであろうあの男が 死に損ないの自分に始末をつけてくれる、と思って生きてきた。
それを 金吾は、彼は俺に斬られることを待っていたのだ、と 瞬時に悟る。

仇討は、心のふれあいとなり、人間としていたわり合う姿となっていきます。
そのきっかけは、敬愛する主君・井伊直弼の、桜田門外での直訴と見せかけての襲撃直前に発した、次のことばでした。
命がけで直訴するものを疎かに扱ってはならぬ。

若松節朗監督は、この映画のテーマは 「赦す」ということではないか、と述べています。
どちらも正義だと信じる者同士の対立を解決するには 「赦す」ことしかありえない、と。


ハッピーエンドの映画は、観ていて気持ちがいいものです。
ことに この映画のハッピーエンドは、ありきたりの気持ちよさではありませんでした。
人間がしでかす行為の中で、赦すということが、どんなにこころ洗われるものであることか。
もっとも尊い行為であり、しかしながら、もっとも難しい行為。

雪の中を金吾がセツの手を取って、未来に向かって歩むようにズームアウトする ふたりの後姿は、赦すということの こころの豊かさを示す、とても心地よいラストシーンでした。