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懸造りに魅せられて

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山陰本線は、小さかった頃のわたしにとって、ひとつの誇りであった。
京都を始発とする国鉄本線は、唯一、山陰本線だけだったからである。

もう 60年も前のことである。
海水浴といえば、日本海 それも若狭の海であった。
南紀白浜は、高級すぎた。
須磨の海は、しゃれすぎていた。
小学校の臨海学舎が 若狭高浜であったこともあり、若狭の海は 夏の思い出で詰まっている。

若狭へ至る道中 山陰本線も、難儀が忘れられない思い出になる 懐かしい情景であった。
蒸気機関車の煙突から出る煤煙を避けるべく トンネルに入る直前にタイミングよく 重い上下スライドの車窓を閉めること、単線の行き違い駅での長い待ち合わせ時間に駅名を覚えてしまい それら駅名を通り過ぎる順番に言い当てあいっこする遊び、タブレット(当時はそんな名前は知らなかったが)を受け渡しする 国鉄マンのかっこよさ・・・


先日、家内と鳥取を訪ねた。
目的は、懸造り(かけづくり)の不動院岩屋堂をみること、それと そこに至る若桜(わかさ)鉄道に乗ること。

特急「あさしお」で、鳥取へ行けるものとばかり思っていた。
山陰本線を通る優等列車は なくなっていることを、知らなかったのだ。
28年前に起きた余部鉄橋列車転落事故の影響か とも考えられるが、山陰本線に優等列車を走らせる 営業的魅力がなくなった、ということであろう。

特急「スーパーはくと」に乗って、鳥取へ。
東海道本線・山陽本線・智頭(ちづ)急行智頭線・因美線を経由して、まず「郡家(こおげ)」で降りる。
智頭線の開通で、京都と鳥取のあいだは、「あさしお」時代に比べ 1時間短縮された、とのことである。

ところで、懸造りのことである。
懸造りは、崖造り とも、舞台造り とも呼ばれる。
急峻な崖や山の斜面にへばりつくように建てられた、寺院建築のことだ。

これは わたしの見解だが、同じ意味の呼び名でも、崖造りと舞台造りでは 少し違う。
京都清水寺の本堂や 奈良県桜井市の長谷寺本堂、それに兵庫県姫路市の圓教寺摩尼殿などは、明らかに「舞台造り」の名にふさわしい。
ところが、山形県の立石寺(通称 山寺)の五大堂や 鳥取県三朝町の三徳山三仏寺の投入堂(なげいれどう)などは、なんでこんな場所にこんなモノ建てなきゃいけないの?と不思議が先立つ建造物で、これぞ「崖造り」そのものである。

鳥取県若桜町の不動院岩屋堂は、わたしの範疇でいう「崖造り」である。

郡家で 若桜鉄道に乗り換える。
国の有形文化財で、第三セクター方式の、片道19.2km 所用時間30分(郡家~若桜間)の鉄道である。
SL体験運転もできる。

途中 七つの無人駅は、愛らしい かかしが守っており、むかし使った牛の体重を計るカンカン秤や レトロなベンチが、綺麗に掃除された駅舎を飾っている。
土地の人々が大切にしている鉄道なんだ と、さりげなく感じ取れる。
千代川(せんだいがわ)の支流 八東川(はっとうがわ)に沿って、昭和の田園が色濃く残る沿線の景色。





若桜駅前から岩屋堂行きの町営バスは、日に7本しか出ていない。
次のバスの発車時刻まで たっぷり1時間半はある。
若桜町の昭和レトロな町並みを、時間も足取りも そして心持ちもゆったりと、散策する。

町営バスの時刻や町の見どころなどを教えていただいた 駅前の「若桜町観光協会」の職員さんが、発車時刻ぎりぎりまで散策していたわたしたちを気遣って、わざわざ町角まで探しに来てくれた。
人の情けに触れる、旅の喜びである。

平家の落ち武者・平常盛が隠棲した落折(おちおり)集落行きの町営バスの乗客は、わたしたち以外 吉川(よしかわ)集落まで乗車したおばあさんだけ。
岩屋堂前で降りたわたしたちに 運転手さんが、30分ほどしたら 落折から戻ってきますから このあたりで手をあげてください 拾いますから、と声をかけてくれた。

不動院岩屋堂は、八東川とその支流 吉川の合流点から吉川沿いに少し登った 川向こうにあった。
赤い欄干のコンクリート橋を渡って その向こう、凛としたお堂が 岩窟のなかにすっぽり収まっている。
吉川のせせらぎ以外 静寂とした中にあって、異様とも思える堂々たる存在感。
美しい。

険しい地形に建立される 懸造りは、修験道の厳しさを目に見える形に表した。
お堂を支える柱は、一本一本長さが異なり、これを造った職人の覚悟が偲ばれる。
その精神は、狭い岩窟の中にありながら すっくと建つ出で立ちを通して、これを仰ぎ見る者のこころに そぎ落としたすがすがしさを与えずにはおかない。





鳥取県は 日本のチベット、などと呼ばれた時期もあった。
現に、全国47都道府県中、面積は41番目で、人口は最も少ない。
GDP的豊かさでいうなら、貧しい県であろう。

しかし、豊かさはGDPだけでは 測れない。
水や空気や緑の豊かさ、鳥取県には それらが溢れている。
交通の便の悪さや公害を撒き散らす産業の貧弱さが、そして GDP的豊かさのみを追求せず 郷土の自然を守ってきた県人たちの心意気が、水や空気や緑の豊かさを維持してくれた、と言えよう。


鹿野の町を歩いた。
鹿野は、鳥取市内から車で 半時間ほどの距離である。
古い小さな城下町で、400年前の面影が そこここに感じ取れる町だ。
山中鹿之助の墓もある。

なによりも、整然とした町並みの脇を流れる 水路の清らかさ。
そして、町を美しく保とうと工夫する 町の人々の営み。





帰路、欲どしく 三朝町三徳山三仏寺に立ち寄ってみた。
投入堂を見たかったからである。
ところがどっこい、三徳山三仏寺は 欲どしい訪問者には厳しい、神と仏が宿る聖なるお山である。

入山心得に、こうある。
参拝受付で輪袈裟をお貸しします。必ず輪袈裟をしてご参拝ください。
投入堂まで、所要時間 往復約2時間、午後3時までに入山手続きを済ませてください。
修行道登山される方は、必ず二人以上でお参りください。
登山靴 または 受付でお分けする わらじで、お登りください。
云々。

帰路予定の時刻が迫っていた。
投入堂の拝観は、次の機会に、その覚悟で参らねばなるまい。


山陰という呼び方は、中国山脈の日陰側 という意味で納得いくのだが、そう呼ばれる この地方の人たちに、なにか気の毒な気がする。
列車時刻表の「上り」「下り」という表現も、都会とか県庁所在地とか大きい側から見ての言い回しである。
その頂点は、いまの日本では 東京である。
その昔は、京の都だった。
「山陰地方の鳥取」ではなく、因幡(いなば)という地名を、復活できないものだろうか。

話が長くなるので 今回ははしょって紹介するが、ずっとむかし弥生時代、因幡の扇状地には一大先進集落があったことを、青谷(あおや)にある「青谷上寺地(かみじち)遺跡」展示館で知った。
朝鮮半島に近く、稲作技術がいち早く伝わったからに違いない。
また、出雲と同じく因幡は砂鉄を多く産し、鉄を使った農業が 早い時期に広まった可能性がある。
鉄を入手しうる者が、豪族すなわち大王(だいおう)になった。
この地方に、古墳が多い理由である。
弥生時代・古墳時代を通じて、この地方は日本の先進地であったのである。


このたびの小旅行で わたしは、ほんとうの豊かさに触れた、と思う。
にわか山陰びいき、かも知れない。
だが、いまのわたしの尺度では、鳥取は 日本で一番豊かな県である。
因幡は、舞台造りではなく 崖造りの似合う、神々を畏れることを忘れていない、日本のふるさとである。