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信州へ(その1) ビーナスライン

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   まだあげぞめし前髪の
   りんごのもとに見えしとき
   前にさしたる花櫛の
   花ある君と思ひけり
   ・・・
七五調4行四聨の この島崎藤村の詩 「初恋」を知ったのは、高校一年生の国語教科書でした。
詩と初恋が ほとんど同時に訪れる、青春期まっただ中の衝撃でした。
現実の初恋より先に、詩の中で恋をしていたといっていいほどだったのです。

この 「初恋」に続けて、同じ教科書に載っていたのが、「千曲川旅情の歌」です。
   小諸なる古城のほとり
   雲白く遊子悲しむ
   縁なすはこべは萌えず
   若草もしくによしなし
   しろがねの衾の丘べ
   日に溶けて淡雪流る
   ・・・
五七調のこの歌に詠われた信州への、ことに ‘歌かなし佐久の草笛’と詠まれた佐久平への旅愁が、爆発的に湧きあがりました。
小遣いを貯めること一年、高校二年の夏休みに、同じ舞い上がりものの同級生とふたり、信州へ旅しました。
2000メートル級の山に挑む 最初の登山でもありました。

まず小諸を訪ねました。
小諸駅は、信越本線を走る優等列車の停車駅あり、当時の小諸城址付近は 観光客であふれていました。

余談ですが、この数年後 志賀高原へスキーで足繁く通っていたころ、ゲレンデで足を骨折して現地で仮治療し、ギプス姿で長野駅から夜行急行列車 「ちくま」に乗るはずでした。
ところが何を勘違いしたのか、夜行準急列車 「あさま」に乗ってしまったのです。
これが信越本線経由の上野行きと気づいたのが、小諸駅でした。
軽井沢で降り、一夜を駅舎で過ごすことになるのですが、その後の珍道中は略します。

憧れの小諸は、喧騒と俗化にまみれていました。
たぶんこの数年後に ここを訪れた司馬遼太郎は、著書 『街道をゆく・信州佐久平のみち』で、当時の小諸を 次のように表現しています。
   小諸なる古城のほとり/雲白く遊子悲しむ という島崎藤村の詩さえなければ、小諸城址はいまも閑かだったであろう。
   こういう騒音もなければ、残忍な客あしらいもなく、テーブルの上の器物の狼藉もなかったにちがいない。
   藤村の詩も小諸城址もわれわれの誇るべき文化だが、それが大衆化され商業的に受け止められて再表現されたときに民族のほんとうの民度とか文化の担当能力が露呈するのかもしれない。
   ・・・

いまの小諸駅は、しなの鉄道の中間駅となっています。
小諸駅は、長野新幹線にそっぽを向かれたのです。
信越本線は横川止まりで 軽井沢とのあいだを絶たれ、残る軽井沢~篠ノ井間は 「しなの鉄道」という第三セクターに格下げされて、小諸駅は、中央本線の小渕沢から来る小海線(八ヶ岳高原線)の北の終着駅という地位にとどまっています。

小諸市民の名誉のために付け加えます。
ついこのあいだ小諸を再々訪した折には、市民ボランティアでしょうか 駅前でも懐古園周辺でも おそろいの上っ張りを着た人たちがゴミを拾い集め、大手門公園ガーデンには市民の手で色とりどりのかわいい花々が植えられていて、すがすがしい気持ちになれました。
新幹線から見放された小諸は、まちがいなく素敵な方向に、生まれ変わろうとしています。

さて、小諸に ‘遊子’の感慨をそがれて、ふたりの高二生は 登山に向かいました。
リュックサックに運動靴姿のふたりは、みたところ 小山のハイキングがせいぜいだったに違いありません。
美しの塔、この響きが、若いふたりを 少々無謀な登山に駆り立てたのです。

どういうルートを採って白樺湖に着いたかは覚えがありませんが、白樺湖で一泊して、ここからスタートしました。
車山、霧ヶ峰、八島ヶ原湿原をめぐり、和田峠を越え、一路 美ヶ原へ。
ちょうどそのルートをいま、ビーナスラインが通っています。

遠くに美しの塔を眺めたのは 夕方5時をまわっていたでしょうか、さっきまで太陽がまぶしかったのに、急にあたり一面濃い霧に包まれました。
晴れていれば、夏の日差しで まだ明るかったはずです。
到着予定地の美ヶ原山小屋(山本小屋と呼ばれていたかも)の廻りを、霧で視界を塞がれて すぐそこに山小屋があるとも知らず、グルグルグルグル・・・

やっとのおもいでたどり着いた山小屋のおやじさんに こっぴどく叱られたことが、すごく懐かしい思い出です。
美しの塔が 霧鐘塔(霧で視界が悪い時に登山者のために鳴らす鐘の塔)であり、一時避難場所であることを教えてくれたのも、この山小屋のおやじさんでした。

翌朝の晴天下に見る、足元下の松本平、その向こうの 背後からの朝日で浮かぶ北アルプスの山々、高二生のふたりには、絶景であったことでしょう。
山の怖さと素晴らしさを知った、初めての ‘登山’でした。

このときに喚起された ‘山好き’はその後 封印され、それが再熱するのは 壮年期に入ってからでした。
ですから、人さまに誇れるような踏破歴はありません。
ひとつ誇れるとするなら、八ヶ岳連峰最高峰の赤岳の山頂で見た ブロッケン現象でしょうか。


ビーナスライン開通のニュースを聞いたのは、昭和56年頃だったと記憶しています。
訳もなく腹が立ちました。
自分の大切な青春を 冒涜されたような気分だったのでしょう。

ときが経ち、もう2000メートル級の登山は無理といわれる年齢に達して、もう一度 あのコースを辿ってみたい、その思いが募りました。
嫌っていたビーナスラインの恩恵を乞うてでも、転がりたいような車山の感触をもう一度味わってみたい、美しの塔に再会したい。


秋が深まった10月の終わり、松本からレンタカーして、ビーナスラインをめざしました。

青空をバックに、車山は、ススキの穂の海原でした。
斜めから射す 秋の午後の日差しをうけて、ススキの穂がキラキラと輝いているのです。
絶叫したくなるような光景です。

霧ヶ峰富士見台から眺める山々、蓼科山から南に連なる八ヶ岳連峰、右手に南アルプスの嵯峨たる峰々、八ヶ岳連峰と南アルプスのあいだの遠くに富士山。
なによりも、8回挑んで5回登頂した 南八ヶ岳の赤岳・横岳・硫黄岳の山々が、手に取るように眺められたのが とてもうれしい。

美しの塔へは、美ヶ原山本小屋駐車場から 散策路をかなり歩かなければならないようで、時間的にも体力的にも あきらめざるをえませんでした。
白樺湖経由で蓼科山北山麓へ向かい、その日の宿泊予定地・春日温泉に着いたころには、もう日が暮れかかっていました。


高二生の青春の足どりを 半世紀ぶりにたどれたのは、あれほど嫌っていたビーナスラインのおかげです。