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信州へ(その2) 無言館

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当初 佐久平を旅したい、とのおもいで始まった、一泊二日の信州への旅でした。
駆け足でもいい、欲張って 上田平や塩田平にも、足を踏み入れたい。
その付け足しのような旅の終わり近くに立ち寄った、無言館のお話です。


実は 無言館については、予備知識は ほとんどありませんでした。
名前と どんな美術館かは、おおむね聞いていました。
それが この旅の最後にたずねた塩田平の南端にあることを、旅の途中で知ったのです。

塩田平は、上田城のある千曲川沿い上田平の南西、上田電鉄別所線沿いに広がる地域です。
わたしの好きな木曽義仲が 平家討伐の宣下を受けて挙兵した城とされる依田城址は、この塩田平のすぐ東側にあります。
上田電鉄を見がてら 別所温泉を視察してやろうと この地に足を向けたのですが、気が変わって、塩田平の南端の山肌に建つ 「無言館」をたずねました。

無言館とは、どんな美術館なのか。
これを建てた窪島誠一郎氏の著した 『「無言館」ものがたり』の冒頭を、その説明に引用させてもらいます。


  「無言館」---
  このちょっぴりヘンテコな名前の美術館は、長野県上田市の郊外、美しい浅間山や千曲川の流れが遠くにみわたせる山王山(さんのうやま)という小さな山のてっぺんに建っています。
  ねずみ色のコンクリートでできた、空の上からみると十字架の形にみえるこの 80坪ほどのちっちゃな美術館は、平成9年5月1日の昼下がり、信州の空が青々と晴れわたった初夏の日に開館しました。
  「無言館」には、約50年前(注・この本の初版が発行されたのは1998年です)におこったあの太平洋戦争で亡くなった画学生さんたちの作品や遺品があつめられています。
  画学生というのは、当時の美術学校で絵の勉強をしていた学生さんたちのことです。
  あの時代、たくさんの画学生さんが学校を卒業してすぐ戦争にゆき、早く祖国に帰って絵を描きたい、そしてりっぱな絵描きになりたいという希望にもえながら、とうとうそれをはたすことなく鉄砲にうたれたり病気にかかったりして死んでいきました。
  「無言館」には、そうした画学生さんたち(そういう画学生さんのことを「戦没画学生」とよびます)が、戦争にゆく前に一生懸命に描いた絵や、戦地でそっと描いたスケッチ、祖国のお父さんやお母さんにあてた絵ハガキ、そのとき使った愛用の絵の具や絵筆やスケッチブックなどがたくさんかざられているのです。
  ・・・

『無言館ものがたり』は、青少年向けに書かれたものですが、著者の窪島誠一郎氏は ほんとはきっと、大人にも読んでほしかったにちがいありません。
窪島氏は、作家・水上勉の最初の結婚で生まれた長男であり、幼いころ空襲で父と生き別れして、1977年36歳にして父・水上勉と再会するのですが、本人は 一言もそれらしきことは語っていません(NHK「ドラマ人間模様・父への手紙」(1983年放送)に詳しい)。
この著書を読むと、彼がどういう気持ちで この美術館を建てたのか、その思いがひしひしと伝わってきます。

窪島氏が書いているように、「無言館」にかざってある絵には、有名な画家になりたいとか、コンクールに入賞したいとか、絵を売ってお金持ちになりたいとか、そういう目的で描かれた絵は一枚もないといっていいでしょう。
画学生たちはただただ一心に、絵を描きたくてしようがなかったのだと思います。
自分たちが生きている ‘しるし’として、絵を残しておきたかったにちがいありません。
「無言館」にある絵をみて、たとえそれがそんなに上手ではない未熟な絵であっても、なんとなくジンと胸を打たれるのは、絵の奥にそういう画学生たちの純粋な心があるからでしょう。

そして なによりも、戦争というものの愚かさや残酷さに、改めて気づかされるのです。
もう二度と戦争なんかおこしてはいけない、その思いが 画学生たちの必死な絵筆あとから読み取れるのです。


わたしは これまで、政治的な活動を 一切避けてきました。
反戦活動であっても、政治のにおいのする行動には、絶対に雷同しなかったつもりです。
それがいいとか悪いとかいう問題ではなく、わたしの性に合わないからです。
ただ、戦争やむなし調の世の動きには、異を唱えたい。
異を唱えねばなりません。

先日、同い年の友人が、「戦後69年というけれど、昭和20年生まれの僕たちは、自分の歳でこれが判るから、便利だね」と言っていたのが印象に残ります。
わたしは、「戦争を知らない世代」の一人です。
しかし、戦争の愚かさや残酷さを、親の世代から じかに伝えられています。
ズルチンの甘苦い味を知る最後の世代の一人として、空腹の惨めさを胃の片隅に記憶している最後の世代の一人として、そして何よりも、あの戦争で痛めつけられ 戦後の貧しさの中にあって 子らを独り立ちできる人間に育て上げてくれた親たちの子の一人として、戦争につながる危険な事柄には、これを赦すわけにはいかない。
あと何年生きるかわかりませんが、残り少ない命の限り、戦争に向かう一切の現象に、勇気を持って異を唱えつづけたい。

薄暗い無言館の中に 時を忘れて、戦没画学生の 「絵を描きたい」一途な筆あとを追いながら、このことを改めて心に誓いました。