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橿原・今井町 今西家

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まだ日本に こんな町並みが残っていたんだ、そんな感慨を抱かざるを得ない場所がありました。
奈良県橿原市今井町。
近鉄橿原線八木西口駅を降りてすぐ、飛鳥川を渡れば、そこが今井町です。
パンフレットのうたい文句は、「飛鳥川の流れに架かった蘇武(そぶ)橋を渡ると、そこは江戸時代だった・・・」。

知る人ぞ知る なのでしょうが、奈良の寺社仏閣はあちこち歩き回ったつもりでいたのに、こんなゾーンが こんなわかりやすい場所に存在していたことに、ちょっとショックでした。
鎌倉時代よりも古い仏像を、この奈良の地に追い求めていた、からかも知れません。

京都の名所や奈良の有名社寺は、とくに観光シーズンには観光客が多く、辟易してしまいます。
ところが ここ今井町は、陽光さわやかな休日だというのに、訪れる人影は まばら。
なにか、とってももったいない気がします。



(上田家(重要文化財)外観)


寺内町(じないまち)という自治集落が、浄土真宗(一向宗)の勢いが盛んだった室町時代から戦国時代にかけて、一向宗の布教が著しかった地に形成されます。
戦国の世に行き場を失った浪人武士が寺内町に流れ着いて 一向宗の門徒となり、その中でも才のあるものが商いを学んで大店に変身する、などは よくある話だったのでしょう。
もともと武士だったのですから、町の自衛に一役買う者もいました。
その代表例が、大坂の石山本願寺です。

同じ宗教都市でも、有力社寺の周辺に 社寺関係者や参拝者を相手にする商工業者が集まることによって形成された 門前町(もんぜんまち)とは、その成り立ちが異なります。
当初の寺内町は、武装宗教都市でした。

寺内町は、自治特権を主張して獲得し、経済的に有利な立場を得ていました。
町政を司った町役人の筆頭に惣年寄をおき、惣年寄は有力な町衆から選ばれました。
行政だけでなく、司法権も持っていました。

ここ今井は、戦国の世、一向宗の本願寺門徒が都市計画に基づいて御坊・称念寺を開き、自衛上武力を養い、濠をめぐらしました。
経済的あるいは人的負担の免除という特権を利用して、富の蓄積に励みます。
大坂の石山本願寺は 織田信長によって徹底的につぶされてしまいますが、今井はこの時期をうまく潜り抜け、商業都市として変貌を遂げます。
そして 江戸時代には、<海の堺、陸の今井>といわれるほど、大いに栄えました。
濠で囲まれた 東西600m南北310mの狭い土地に、盛時には4000人を超える人々が暮らしていました。


さて、今西家は もともと武家の出で、代々今井の惣年寄筆頭をつとめてきた家筋です。
今井町の西端に位置し、今井の西口を固める の意で、今西の名を授けられました。
西口は、堺に向かう もっとも重要な門でした。

今西家主屋は 1650年の棟上で、今井町に残る民家では もっとも古い建造物です。
西側は、すぐ環濠です。
外壁は白漆喰塗り、大棟の両端に段違いに小棟を付けて、入母屋造りの破風を前後に食い違えて見せさせています。
堂々とした城郭風の外観です。



(今西家(重要文化財)西側外観)


北側の本町筋に面して大戸があるのですが、そこに ‘拝観を希望される方は東入り口まで’との張り紙が見えるだけで、要領が飲み込めません。
本町筋を挟んで北側の住居(これもどっしりした民家です)の軒下に、ツバメが巣を作っています。
今西家の大戸の前で三脚を立てて、年配のカメラマンがいます。

彼は、さっきからじっとしています。
大戸の前をウロウロしていたら、ちょっと手伝ってください、という。
ツバメの巣の前あたりに 手を伸ばしてくれ、というのです。

親ツバメが巣に戻ったときのシャッターチャンスに ピントが合っているように、準備をするためだったのです。
そのお礼か 早く退いてほしかったのか どうかは判りませんが、‘東入り口’のあり場所を そのカメラマンが教えてくれました。

あとで判ったことですが、現在の今西家の子孫住人は、城郭風主屋の南側に建てられた続き棟に住んでいます。
‘東入り口’は、その住人の勝手口だったのです。
ベルを押し、拝観をお願いします。
北側大戸へ廻って お待ちください、とのこと。





しばらく待って、大戸の通用戸が開きました。
上の画像は、内側から撮った大戸と通用戸の落とし閂で、通用戸の落とし閂には、後年付けられたのでしょうが、自然に落ちないように引っ掛けが付いています。
落とし閂は、閉めたら勝手に閂が掛かる仕掛けです。

大きく屈んで入らないと、頭が通用戸の上梁に当たります。
中へ入るとすぐ、天井の高い 広い土間です。



(今西家どま天井)


案内していただいた女性は たぶん 現在の今西家の子孫住人の方で、上品なご婦人でした。
彼女が、重要文化財・今西家住宅の詳しい説明をしてくれました。

広い土間には柱がありません。
大梁3本を中心にした豪壮な小屋組みで、柱なしの土間空間を作っています。
司法権を託されていた惣年寄筆頭・今西家のこの土間は、お白州だったのです。

土間空間の北側に、梯子でしか登れない小部屋が左右に二つあり、中央で仕切られています。
仮留置部屋で、容疑者の自白を促す燻し部屋でした。
左が男罪人用、右が女罪人用。

土間西側に、小窓付の嵌め殺し扉があります。
その先は、牢屋でした(火災で消失して いまはありません)。
仮留置部屋に梯子を掛けて 自白した罪人を下ろし、この嵌め殺し扉から投獄しました。

土間の正面(東側)は、高い段差の框を設けて、大戸側から ミセノマ、ナカノマ、ダイドコロとなっています。
松竹梅を描いた厚板戸で、土間と仕切られています。
この厚板戸には 室内雨戸が付いていて、落とし閂が掛かるようになっています。
ナカノマは、裁きのあるときには 裁き人の坐るところでした。


その奥は少し高くなっていて、ミセオク、ナンド、ブツマ。
ブツマの南に 角座敷(ツノザシキ)があり、主屋に接続されています。
現在の今西家の子孫住人の住まいは、この重要文化財の角座敷の南に増設された 窓のない続き棟でした。

ナンドには分厚い板障子がはまっていて ここに入るには、高い敷居を越えなければなりません。
主のみが入れる金庫室を兼ねていました。
商家の構えとは一味違った、威厳に満ちた たたずまいです。

今西家住宅は建築学的にも貴重な遺産だということが、門外漢にもそれと判ります。

それにしても、300年以上も長きに亘って よくも維持し続けられたものです。
窓のない続き棟に寝起きして、です。
尊敬の念を抱きます。

今西家だけでなく、今井町に残る文化財住宅のほとんどに現在もその子孫が住み、文化財住宅を維持し続けています。
京都の文化財住宅の現状を 聞きかじりでざっと知っているだけに、住む身になって考えれば、彼らの忍耐強い苦労が推し量れます。
ボケっと町並みを見学するだけでは、なにか申しわけない気持ちです。


5月9日~17日に、「引き継ごう 癒しの町並み・今井 町並み散歩---今井宗久をとりまく茶人たち」と題したイベントが催されます。
(詳しくは→  http://www3.kcn.ne.jp/~imaicho/index.html )
20周年記念のことし、チラシの文句に惹かれます。


  今井の先人たちは、町家の框などの段差や町並み歩行で、幼いときから自然と足腰が鍛えられてきました。
  そして 老いたときには、人と人との助け合いのなかで絆を創り、障害を克服してまいりました。
  ・・・
  今年の今井・町並み散歩は、常々意識している商都復活と同時に、人と人との助け合いによって生まれる 癒しの町づくりに気づくことも、町並みを守る大きな力になると信じて、開催します。


一度は訪ねてみたい、訪ねにゃ損する、今井町の町並みです。