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ゆりかごの海

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ベタ凪とは、こういう海のことを言うのだろう。
天草上島の南、御所浦島の烏峠(からすとうげ)から見た、不知火海のことである。
不知火海は、このベタ凪のような穏やかな内海から、ゆりかごの海とも表現される。

天草を訪ねる たいがいの旅人は、宇土半島から 天草五橋の天草パールラインを抜け、天草上島北海岸の ‘ありあけタコ街道’ を通り、下島の西海岸をめぐる。
東シナ海の百万ドルの夕陽が眺められる、天草西海岸サンセットラインだ。
帰路はサザンカロードを利用し、余裕のある旅ならば、本渡(ほんど)から 天草上島の南海岸線(国道266号線)を通るルートだろう。

御所浦島は、この国道沿いにある棚底港からフェリーで半時間足らずのところに位置する。
本渡からもフェリーが出ているが、わざわざフェリーで御所浦島へ渡る旅人は、よほどの旅好きに違いない。

2007年、本渡から御所浦経由水俣行きフェリー・水俣航路が廃止された。
不知火海の向こう、水俣へは、予約制の海上タクシーに頼るしかない。

水俣を震源地とした ‘水俣病大人災’ は、このゆりかごの海を 「死の海」へと変えた。
水俣に日本最大の化学工場を保持していた国策企業チッソが、1932年から1966年までの34年間 ほぼ無処理のまま水俣湾に流し続けた有機水銀が原因である。

2011年3月に起こった福島第一原子力発電所事故を思うとき、水俣病大人災が どうしても頭から離れない。


水俣病裁判は 一見、壮絶だった。
黒地に白字で太く 「怨」と書かれた幟を何本も押したて、同じく 「怨」と書かれた管笠を被り、背中にも 「怨」の文字の白法被に身を固めた、原告団の姿。
しかし、報道が伝えるその異様な姿に隠された真実を、当時のわたしは 何一つ理解していなかった。
1969年、水俣病第一次訴訟と言われる訴訟のころ、大学紛争で荒れていた時期である。

1956年の水俣病公式確認から半世紀以上を経た2012年7月末、水俣病特別措置法(2009年成立)における未認定患者の申請が締め切られた。
水俣病問題の、形式上の幕引きである。

1956年から2012年、遅きに失した公式確認と納得のいかない幕引きだとしても、その間、実に56年である。
この半世紀以上に及ぶ葛藤を、十分ではないにしても ほぼ検証された現代日本史の汚点として、重く再考されなければならない。
福島第一原子力発電所事故の行方を見定めるためにも・・・

個人にとって国家とは?、行政に個人はどこまで期待していいのか?、不徳のリーダーが導く大企業のエゴ、そして何よりも、窮地の人の心の醜さと暖かさ。
一体 「怨」は、何から発するのか、そして 「怨」は、どこへ向かうのか?
これらを、前代未聞の ‘人災’水俣病事件から汲み取らなければ・・・


水俣病の真実の一端に触れたのは、雑誌 『ライフ』に載っていたユージン・スミスの写真だった。
社会人になってまもなく、羽田から福岡への機中で スチュワーデスさんが渡してくれた雑誌の内の一冊だった。
その ほんとうのおののきを知ったのは、石牟礼道子著 『苦海浄土-わが水俣病』を読んでからである。
単行本 『苦海浄土・・・』を買ったのは、新居浜の登道商店街にあった明屋書店、と記憶する。


いま、藤崎童士著 『のさり-水俣漁師、杉本家の記憶より』(新日本出版社刊)を読み終えた。
杉本家三代の人々の苦悩を、俄か勉強のわたしに理解できようもない。
ただ、想像力を逞しくして、彼らの苦悩に寄り添うしかない。

熊本県水俣市の南端、鹿児島県との県境に、茂道(もどう)という昔ながらの小さな漁師村がある。
杉本雄(たけし)は、息子二人とともに、チリメンやイリコ漁をしながら半農半漁の生活をしている。

雄の妻・栄子は、肝っ玉母ちゃんのような 優しくて頼りになる漁師で、5人の男の子を産んだ。
栄子は、2008年に水俣病で亡くなった。
栄子の母・トシは、茂道における水俣病患者第一号であった。
栄子の父・杉本進も、水俣病に罹って亡くなっている。

進が、生前 うわごとのように繰り返していたという言葉がある。

 病気に罹ってきつか 死んでも死にきれんほど辛か
 いいか、水俣病は<のさり>と思え 人のいじめは海の時化(しけ)と思え
 こん時化は長かねえ だけど人は恨むなぞ 時代ば恨め
 わらは網元になるとじゃっで人を好きになれ そして漁師は木と水を大事にせんばんぞ
 ばってん、人にはしてはならんこつのあっと それは、こげんしたこつぞ
 病んで身を絞るほど辛いかこつば知っとるからこそ、こげんしたこつはしてはならんとぞ
 ・・・
 人をのろうてん、会社(チッソ)の悪口いうてん、なんもならん
 人に騙されてん、人を騙さんごつ・・・

人に騙されても、人を騙すことはするな、と進は言い残した。
人を恨むな、時代を恨め、と。

むかしは家族のように親しかった村の人々に、チッソと闘う杉本家の人々が、虫けらどころか 紙切れ同然に扱われたとき。
怒った栄子の胸中に、亡き父・進が言い残した言葉が去来する。

 悔しかったら、そん人がどげん気持ちで言わすっか目ば話すな 心の中まで見抜け 見通すくらいの人になれ
 そげんすれば生きて残らるっぞ
 言われても言われても その人を殺そうとか刺そうとかしとらんとだから、言うたしこ全部自分に返る
 全部その人が言うたしこ持って帰ってもらえ
 それで一丁前の人間ぞ

著者の藤崎氏は、彼ら杉本家の人々が生死の崖っぷちから見出した、救いの境地がある、と言う。
それを、<のさり>と言うのだ、と。

 自分が決めなくても天の恵みを授かった という、熊本の漁師言葉であるが、現在でも、杉本家では大漁不漁という言葉は滅多矢鱈に使わない。
 海に行き、運よく大漁に恵まれれば 「のさった」と言う。
 不漁のときは 「のさらんかった」と言う。
 そして 「明日はもっとのさろう」と己の心を奮い立たせる。
 今日は運よく大漁だとしよう。
 自分たちが大声で大漁と喜んでみせれば、次に不漁した者が落ち込んでいるかもしれない。
 明日は自分たちが不漁かもしれない。
 本当の不漁の怖さを知っている雄と栄子は、不治の病である水俣病すらも、天から授かった<のさり>と受け容れることで、日々繰り返される痛苦を前向きに捉まえ、憎しみも悲しみも心の底に収めてきたのだ。
 ・・・
 数々の呪縛から解き放たれ、全てを受け入れようと前を向き立ち上がったとき、求めずとも内奥に染みこんでくる微かな響きがある。
 それが<のさり>だ。
 自分を救いたいと願う心の響きだ。


わたしは想像する。
戦後70年、この日本に住むわれわれは、ことに現在の日本に住むわれわれは、しあわせな国民であった。
それは、この70年間に起こった世界の数知れない不幸を思えば、明白である。
このしあわせは、過去の理不尽な ‘ふしあわせ’を礎にしている。
戦争孤児、中国残留孤児、胎児性水俣病患者、イタイイタイ病罹病者、原発事故離散家族・・・
これら、理不尽な ‘人災’で ふしあわせを強いられた彼らの、声なき<のさり>を踏み台にして 成り立っている。

「死の海」が 「ゆりかごの海」に還ろうとも、このことを、決して忘れてはならない。