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飛鳥大仏

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飛鳥寺安居院を訪ねたのは、去年の秋、10月12日であった。
稔りの稲穂と夏の代名詞のひまわりが同居する田畑の向こうに、金木犀の香る飛鳥寺安居院はあった。
穏やかな、懐かしい光景。
やまとは 国のまほろば、ほんとうにそうだと思う。
風が渡って、稲穂とひまわりを揺らしていた。




御堂内部は、撮影自由。
飛鳥大仏を、パチパチ撮らせていただいた。
なんという おおらかさ。

面長、杏仁(きょうにん)型の眼、引き締めた口元、まさに推古仏のお顔である。
それにしても、痛ましい傷跡を残しておられる。
爛れたような頬に、このみほとけの背負われた 人間の業を読み取れる気がする。

飛鳥寺のみほとけは、忘れられたみほとけの代表といってもよい。
満身創痍のこのみほとけに なにか拙劣な感じだけを抱いて、その痛みの意味から引き下がっているのではなかろうか。
そうであってはならない。
このみほとけを造りあげた作者の、深い深い祈りに、心いたさねばならない。

飛鳥大仏の前に正座して、思い起こしていた言葉がある。
毎日新聞奈良版に 『奈良の風に吹かれて』を連載されている、西山厚さんの言葉である。

  元気いっぱい幸せいっぱいの人が仏像を造ったりはしない。
  悩みや苦しみや悲しみがあるから、あるいは切実な願いがあるから、
  人は仏像を造り、その前で祈り、大切にしてきた。
  すべての仏像の向こうに、その前で切なる祈りを捧げた それぞれの時代の人々がいる。
  そして今も、その前で祈りを捧げる人がいる。
  確かに仏像はすぐれた美術品でもある。
  しかし、すぐれた美術品として、ただそれだけの意味で展示したのでは、
  仏像がもっている広い深い世界の大部分は、失われてしまう。
  私は金子みすゞさんの詩の一節を、いつも思い出す。
  「私がさびしいときに/仏さまはさびしいの」
  そして私は手をあわせ、仏像(=仏さま)をじっと見つめる。