おとなの始末 |
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おとなの始末。
落合恵子さんの新書本(集英社)のタイトルである。
いわゆる<ハウツーもの>は、最近は読まないことにしていた。
なのに、『おとなの始末』は、最後まで読みきった。
読みきった ということは、わたしにしてみれば、いい本に出会えた ということになる。
「素晴らしい一冊の本に出会うためには、100冊のくだらない本を読め」というけれど、読書力の衰えたわたしには 無理な努力だ。
100冊の完読は無理だから、4~5冊の本で勝負することにしている。
それも、省エネ法で。
本屋さんで 題や表紙に惹かれた本は、手にとって パラぱらっとめくってみる。
内容は(理解できていないから)二の次で、読みやすさや意匠センスで、まず篩いにかける。
決め手は、<あとがき>である。
<あとがき>を多少努力して読んで 気に入ったら、レジへ。
こういう ズボラな選定法だから、当たり外れの当り確度は そうとう低い。
『おとなの始末』は、その低い確度の中での当りの中の一冊である。
『おとなの始末』の<あとがきにかえて>に、こうある。
・・・それにしても、あとがきはいったい、だれのためのものだろう。
なかなか書き終えることができない言い訳に、さっきからそんなことを考えている。
それは著者のためのものなのだろうか。
読者のためのものだろうか?わたしにはわからない。
なんとなく言い訳めいているな、とも あとがきについて思う時がある。
読者のためでも著者のためであっても、書き残したものがあるなら、
本文に加えればいいのに!
まったく同意見だ。
落合さんは正直だなぁ、と思う。
・・・たぶん、わたしはたくさんの宿題、「おとなの始末」を完成させることなく、
この生を終えるだろう。
しかし、生きることに、そして最期を迎えることに、完成形などあるのだろうか。
なにをして完成と呼ぶことが可能なのか。
ほとんどすべての人生は、未完といえるのではないだろうか。
そうして、落合さんは、(ほんとうは本文に加えるべきなのに)こう結論めいたことを、この<あとがきにかえて>で述べている。
「おとなの始末」とは、つまり・・・。
最期の瞬間から逆算して、残された年月があとどれほどあるかわからないが・・・。
カウントすることのできない残された日々を充分に、存分に 「生きる約束」、
自分との約束、そう呼ぶことができるかもしれない。
生あるうちは生きるしかない。
生きるなら、「自分を生ききってやろう」という覚悟のようなものが、
本書 『おとなの始末』の底流に流れる静かな水音といえるかもしれない。
落合さんは ほんとうは、一番言いたいことを<あとがき>に書くということを承知で、長々と(失礼!)本文を書いてられたのか、とも思う。
上の文のすぐあとに続く次の文は、この本のなかで わたしが一番好きな一節である。
これこそ、「おとなの始末」なのだ、と思う。
クレヨンが好きで、仕事机の横にいつも置いている。色鉛筆もある。
あれもこれもそれも、と24色や36色のすべてを
試してみたかった年代は、とうに過ぎた。
さまざまな色を思いつくままにやみくもに使いながら、
あの頃はどの色も、自分の色とはなぜか思えなかった。
そしていま・・・。
一色だけを選ぶことはまだできないけれど、数色だけが、わたしの素手に握られている。
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