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旧満州・虎頭要塞

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若い頃、法事などの親戚の寄り合いで 戦争経験年長者らがちょっと自慢気に戦争の話をするのが いやでした。
日ソ中立条約を破って参戦した 旧ソ連の悪口は、さんざん聞かされました。
興味本位に相槌を打っている聞き手にも、嫌悪感をもちました。
この年になって、あのときもっと真摯に聴いておけばよかったと 悔やまれます。

太平洋戦争は真珠湾にはじまりましたが、戦闘が本当に終わったのは「終戦」の11日後の 昭和20年8月26日でした。
虎頭要塞攻防戦は この日の戦闘を停止したまま、いまも残っているのです。

山崎豊子が著した大河小説 『大地の子』 の冒頭にあるソ連軍による殲滅作戦・集団自決事件に巻き込まれた 大開拓団 “清和開拓団” が入植したのは、旧満州・虎頭要塞の直近でした。
その虎頭要塞の記事を、8月15日の朝日新聞朝刊で目にしました。
そこで岡崎久弥さんという民間人が虎頭要塞のことを真剣に調査されていること、その成果をまとめた報告書を領布していただけることを知り、A4版250ページにも登る『虎頭要塞・日本側調査研究報告書』を送っていただきました。
虎頭要塞攻防戦の実態を調べる旧ソ連領での本格調査が、この春初めて実現したのです。

岡崎久弥さんの父上・岡崎哲夫氏(平成12年死去)は、虎頭要塞攻防戦で生き延び日本へ生還した数少ない兵士のひとりで、戦記 『秘録・北満永久要塞_関東軍の最後_』(要約版:1963年 文藝春秋,書籍:1964年 秋田書店刊)を出して 虎頭要塞攻防戦の事実を 初めて世に知らしめました。
そして 彼を中心とする関係者らの 辛抱強い中国側との交渉によって、やっと平成5年に 中国の研究者らと共同で 虎頭要塞の現地調査が始まりました。

旧満州(現中国東北部)を占領していた旧日本陸軍は、旧ソ連との国境を守るために 国境線に沿って 巨大な地下要塞を14ヶ所建設しました。
当時の軍部は これを “築城” と呼んでいました。
そのうちのひとつが虎頭要塞で、南北10km、東西8kmの鉄筋コンクリート構造、多数の中国人労働者を 強制労働させて 昭和9年から建設がはじまり、昭和13年3月に第4国境守備隊として編成されます。
シベリア鉄道を狙う巨大砲を据え、地下に兵舎や病院があり、分厚いコンクリートで固めた通路が蟻の巣穴のように貫かれていました。

昭和20年8月8日深夜、旧ソ連軍は虎頭要塞になだれこみます。
関東軍の国境警備隊や開拓民ら約2500人が この要塞を拠点に徹底抗戦を続け、日本の無条件降伏を知らせに来た ソ連側の軍使も斬殺し、戦闘は8月26日まで続きます。
守備隊は、ソ連軍の砲撃や地下に掘られたトンネルへの ガソリン火災攻めなどの爆破攻撃に圧倒され、 8月26日、すべての大砲は破壊されて 地下要塞は自爆します。
撃ち殺された以外に 生き埋めにされた人が多く、生存者は53人とされています。
トンネルには今も多数の人骨が放置されているのです。

平成17年8月15日の終戦の日、虎頭現地で 黒龍江省政府主催の国際平和集会が開催されました。
その模様は、世界5カ国を衛星回線で結び、アナン国連事務総長(当時)からもメッセージが寄せられる中、 日本側戦友会の代表が戦後初めて中国、ロシアの元兵士たちと和解の握手を交わしました。
式典では、 『第二次世界大戦終結地記念碑』 の前に日中ロ三国の犠牲者を等しく悼んで花輪が献花されました。
日本側の代表 安井勝さんは、あいさつで力を込めて訴えました。
決してもう、傷付け合うことはないように」。
極東アジアの新しい胎動を覗わせる出来事でした。

平成18年5月、岡崎久弥さんら訪問団は、日本の桜(検疫の問題で実際は中国産)5本と 中国の梅5本を ウスリー川を見下ろす虎頭の公園に植えました。
しかし この日中友好の象徴は、あっという間に何者かに掘り返されてしまいました。
付近の住民は 「たちの悪い中国人の仕業で、恥ずかしい」 と口々に謝罪しました。
反日感情があったのかもしれません。
今年5月、訪問団は要塞周辺に梅の苗木を植樹し、日中友好とアジアの平和を祈りました。

虎頭は、冬はマイナス30度にもなります。
戦況が悪くなってからは多くの兵士が南方戦線に駆りだされ、北満の国境警備隊への配属は、応召を拒否した 岡崎哲夫氏のような兵士が、懲罰的に配属されました。
要塞の建設には、大量の異民族の血が、いけにえにされました。
中国側の被害感情は、計り知れません。
なによりも虎頭要塞は、関東軍の最高機密だったのです。
戦後一貫して虎頭要塞が語られることがなかったのは、生存者がほとんどいなかったということもありますが、そういう事情が背景にあったのは確かです。

いま、虎頭周辺は 観光旅行で訪れる中国人のグループが多くなったと報道されています。
大砲跡の大きさに驚く家族連れや 遺跡を背景にスナップ写真を撮る二人連れ。
戦争を知らない世代が、過去のいきさつに関係なく、戦争遺跡に見入っているのです。
そこには、新しい交流の可能性があるのかもしれません。

2年前、江崎英子さん(当時42歳)は、戦争を体験したことのない自分が戦争の悲しみを子供たちに どう伝えてよいのか戸惑っていたところに、虎頭民間調査団に参加する機会を得ました。
60年ぶりに現地を訪れた同行の 元兵士の小島稔二さん(当時84歳)が、仲間の名前を叫びながら 虎頭の丘陸をさまよう姿に、涙が止まらなかった。
放置された遺骨を なんとかして日本に還してあげたい。
その想いが心の底から湧きあがって、やっと自分の言葉で 子供たちに何を語ればいいのかを感じることができた といいます。
みんなが相手の気持ちを理解せんといかんのよ」。
そう体全体で感じたというのです。

戦争を興味深く語ることは かんたんです。
しかし、岡崎久弥さんから送っていただいた報告書で述べられているように、その中心に 死者への 限り無い哀悼がなければなりません。
戦争の事実はいろいろ解釈されましょうが、戦争の真実は、犠牲者や傷ついた者たちに 等しく共通する『心の叫び』 なのです。
岡崎さんは、この本の「はしがき」を 次のような言葉で締めくくられています。


人の心を失わないということは、この複雑で不確実な世の中に生きている私たちには大変な努力の要ることである。
もちろん誰もが聖人君子ではいられない。
しかし、いつも、よりよく、誠実に生きたいと葛藤している。
虎頭要塞の旧戦場を歩き、戦争体験者や戦没者の遺族の方々のお気持ちに触れるなかで、逆にそのことを、いつも、どこかで教えていただいているような気がしてならない。