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エンデの遺言、ムヒカの言葉。

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衝撃的な児童文学 『モモ』を目にしたのは、もう30年以上も前のことです。
子供に買い与えたこの本を、親のわたしの方が、惹きつけられるように読みました。
時間泥棒にさいなまれていたのは、わたし自身でした。
著者であるミヒャエル・エンデに傾倒するきっかけです。

NHKアインシュタイン・ロマン(全6巻)を読み漁ったのは、25年前。
それこそ “文明砂漠”の真っ只中をさまよっていた時期です。
このシリーズの最終巻 『エンデの文明砂漠---ミヒャエル・エンデと文明論』で エンデは、「友人としての日本人へのお願い」と題して、次のように語っています。

  今まで話さないでいましたが、実は提案があるのです。
  私は、過去10年ほど経済の問題を考えてきました。
  というのも、人類文化の大部分は、私たちが成長を前提にしない経済の形を見つけるかどうかにかかっているからです。
  問題は経済における成長の強制はどこからくるかということです。
  なぜなら、これは強制なのですから、自由意志による成長ではありません。
  そうではなく経済は存続し続けるために成長せざるを得なくされています。
  このことは私たちが有する貨幣経済はいったい現代の製造形態に今もふさわしいものなのか、という問いにつながります。

エンデが夢見た経済の姿は、およそ拝金主義とは正反対の、実体経済と結びついた通貨制度でした。
もう一度、貨幣を実際になされた仕事やものと対応する価値として位置づけること。
それは、立川談志が 「汗水流してこさえた1万円と パソコンをチャチャッと操作して稼いだ1万円と おんなじに考えてもらっちゃぁ やってられねぇよ」と嘯いたのと、同じ脈絡だと思います。

先の 「提案」の語りで、エンデはこう続けます。

  私の見るところ、私たちは、貨幣に今までとは別の機能を与えなくてはならないようです。
  もちろん、貨幣とは資本としての貨幣です。
  この問題は今日に至るまで解決されていません。
  マルキシズムは解決ではありませんでした。
  マルキシズムは、私的資本主義のかわりに国家資本主義をおいたにすぎません。
  つまり資本主義的システムであることに変わりはないのです。
  私たちは、非-資本主義的システムであり、自由経済を許すシステムを探さなくてはならないのです。

そして、エンデはこう提案します。

  私はここで提案をしたいのです。
  確か1970年ごろだったと思いますが、「ローマ・クラブ」がありましたね。
  この 「ローマ・クラブ」と同じようなものが必要だと思います。
  私は、それを仮に 「東京クラブ」と名づけますが、世界中から経済学者を集めます。
  これは何か間違っていると、気づいた学者だけですが・・・
  つまりこの貨幣システムには、実は経済生活を絶え間なく破壊的に侵害するものがあると気づいた人たちですね。
  そこで、最重要な経済学者200人を 「東京クラブ」に呼び集めるのです。
  その開催場所としては東京が最適だと思うのです。
  東京こそはこの問題が一番顕著な場所なのですから。
  そして、この 「東京クラブ」では公共の場で財政問題が討論されるべきで、その内容はマスコミを通じて一般意識に浸透させるべきです。
  ちょうど 「ローマ・クラブ」が実際に環境問題を一般意識に浸透させたのと同じように、この 「東京クラブ」は財政問題を一般意識に浸透させるのです。

エンデが描いたこの夢は、残念ながら いまだに実現していません。
しかし、エンデが亡くなった年に起こった 「阪神淡路大震災」から 5年前に起きた 「東日本大震災」、そして今も余震の続く 「熊本大地震」を経験した日本人の心に、エンデの指し示した なにかが生じ始めています。
GDP3%成長を維持し続ける日本経済が、私たちをほんとうにしあわせにしてくれるのだろうか、と。


ホセ・ムヒカという人物を、わたしはつい最近まで知りませんでした。
ウルグアイ第40代大統領ムヒカのリオ会議スピーチを、この間 読んだばかりです。

リオ会議とは、2012年にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開かれた国連の 「持続可能な開発会議(Rio+20)」のことです。
その初日、アルファベット順に 各国の首脳によるスピーチが行われ、ムヒカ氏は最期の演説となりました。

まるで 『モモ』を読んだときの衝撃と同じように、ムヒカ氏のスピーチの一言ひとことが、私の心に刺さりました。
あぁ、こんな指導者がこの世界にいてくれたんだ、ただそれだけで、心が晴ればれしました。

  私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。
  幸せになるためにこの地球にやってきたのです。

ムヒカ氏は、はっきりそう断言してくれました。
なんで、こんな当たり前のことが、いままでどこの国のリーダーからも発せられなかったのか。

ムヒカ氏の言葉の極めつけは、次のひとことです。

  「貧乏な人とは、少ししか持っていない人ではなく、無限の欲があり いくらあっても満足しない人のことだ」

「メザシの土光さん」と言われた土光敏夫さんの言葉に迫力があったのは、彼が清貧の人だったからでしょう。
それと同じように、世界でもっとも貧しい大統領と言われるムヒカ氏だからこそ、彼の言葉には魂がこもっています。

彼の熱弁は、「頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください」との前置きから始まります。

  午後からずっと話されていたことは 「持続可能な発展と世界の貧困をなくすこと」でした。
  けれども、私たちの本音は何なのでしょうか。
  現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することなのでしょうか。

  質問をさせてください。
  ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てば、この惑星はどうなるのでしょうか。
  息をするための酸素がどれくらい残るのでしょうか。
  同じ質問を別の言い方でしましょう。
  西洋の富裕社会が持つ傲慢な消費を、世界の70億~80億の人ができると思いますか。
  そんな原料がこの地球にあるのでしょうか。
  可能ですか。

賞味期限切れの Coco壱番屋カツ横流し事件で大騒ぎした日本人なら、ドキリとさせられる質問です。
ムヒカ氏は、質問形式をとりながら、消費主義社会を痛切に批判しています。
ムヒカ氏が批判した消費至上主義社会は、まぎれもなく、エンデの遺言が指し示してくれた 「経済生活の理想、競争ではなく友愛で成り立つ経済社会」から大きく逸脱した社会です。
発展を強制された経済は、飽くなき消費を促さざるを得ないのです。

ムヒカ氏は、スピーチの最期に、こう結んでいます。

  私の言っていることはとてもシンプルなものですよ。
  発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。
  発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。
  愛を育むこと、人間関係を築くこと、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限の物を持つこと。
  発展は、これらをもたらすべきなのです。
  幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。
  環境のために闘うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であることを覚えておかなくてはなりません。


ミヒャエル・エンデが亡くなって20年、その遺言に触発されるように、何か違う何か間違っていると思い続けて、やっと光明が見えました。
ホセ・ムヒカの言葉は、その光明です。