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蕗の大堂

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上空から見るとよくわかるのだが、国東(くにさき)半島は九州の右頭にできたコブのようで、たしかによく目立つ。
B29が南から飛来して本土を空襲するとき、この国東半島がいい目印になったという話は頷ける。

終戦の年、北九州空襲の帰路 B29は、豊後水道に抜ける傍ら 燃料節約のために、国東半島の山村に 落とし残しの爆弾を、無差別に落としていった。
その一発が田染(たしぶ)の里に落ちた。
「蕗(ふき)の大堂」と地元民から親しみをこめて呼ばれている富貴寺(ふきじ)の阿弥陀堂の、すぐ裏手であった。
大堂の屋根や壁は吹っ飛び、堂内の阿弥陀如来坐像も床に転がった。

大堂の床には、無数の傷がある。
近所の子供たちが、空の見える堂内でコマ遊びをしていた 名残りであるという。


国東半島は、中央の両子山(ふたごさん)を頂に放射谷を形成して、お椀をふせたような形をしている。
そのほとんどが、森。
千三百年の山岳信仰の地、六郷満山である。
神と仏の二つの顔をもち、あい矛盾することなく並行しながら、長い在地信仰の歴史を刻んできた。

緑豊かな森林が 「日本人の原理」をつくる土台になっていることを考えるとき、わたしは、この国東半島の在地信仰に 日本人の原点を感じる。
半島に満ちる権現信仰に、日本人本来の自然観を見いだす。

ことに 富貴寺(蕗寺)の阿弥陀堂に接して、心の底から美しいと思った。
三間四間の さほど大きくない宝形造り。
中心の宝珠から四方に わずかに曲線を描いて流れる、軒深い行基葺き瓦屋根の美しさ。

宇治平等院の鳳凰堂、平泉中尊寺の金色堂と並んで、日本三大阿弥陀堂とされているが、美しさの質が まるで違う。
日に焼けた老農夫の 深い皺に見る美しさ、とでも言おうか、簡素にして安定した 心安らかな美しさである。

この大堂も、受難多き悲愁の歴史を辿っている。

寺の源流は、他の六郷満山諸寺と同じく、宇佐八幡宮に発生した本地垂迹説の思潮に発し、宇佐八幡宮の化身といわれる仁聞菩薩(にんもんぼさつ)の創建(718年)とされる。
下って 平安後期、宇佐八幡宮司である宇佐氏の氏寺(うじでら)として、本堂とは別に 阿弥陀堂の名で建立されたのが、蕗の大堂である。

六郷満山は 武士の世に荒らされて衰徴し、戦国時代には キリシタン大名・大友宗麟の仏教寺院破壊の手にかかり、蕗の大堂も大破した。
これを悲しんだ村人が力を合せて修復し、破損した瓦を捨てて草葺き屋根とした。

その後も 大堂は、何度も大修理が加えられた。
1677年(延宝5年)には 肥前島原藩主・松平忠房が保護の手を差し伸べ、また1912年(明治45年)には 国の特別保護建造物の指定を受けて大修理が施されて、草葺を瓦葺に復した。
昭和20年4月の米軍機投弾による大破に対しては、昭和25年に 三年に亘る大修理の完成をみた。
そして 昭和40年に、屋根は行基葺きに改修されている。

いまに残っている古きものには、やはり それなりの理由がある。
残さずにはおれない なにかが、そのものに備わっているからだろう。


大堂の外陣に坐して、阿弥陀如来と向かう。
如来だけの、簡素な須弥壇。
魅力的とは言いがたいが、なんと安らかなお顔であろうか。

内陣を区切る四天柱には、うっすらと胎蔵界曼荼羅の尊像らしき絵が見て取れる。
薄暗くてよく見えないが、内陣後壁にも四壁にも、仏画がびっしりと描かれている。
富貴寺の苦難の歴史そのままに、絵の痛みはひどい。
その分 余計にか、心安らかである。

蕗の大堂は、いつまでも残っていて欲しい。
残っていて欲しいと、心から願う。