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安保

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最近、 「めったくそ腹立つ」 こととか 「イライラして頭変になりそう」 ってことが、少なくなりました。
そういうことを、意識的に避けているのも事実です。
とにかく欲しいのは、心安らかなこと。

でも、このところの日本の政治のドタバタを見るにつけ、ふっと不安になります。
孫たちが青年になる頃、この日本はどんな国になっているのでしょうか。
住み心地のいい国であり続けていられるでしょうか。

よくよく考えてみると、私たちの世代の青年期というのは、安保(日米安全保障条約)のことを抜きに 語れないんですね。
そのくせ、安保のことを (今でも詳しく理解しているわけではないですが)これまで ほとんどなんにも知りませんでした。
なぜもっと安保のことを知ろうとしなかったのか、そう思って反省してみると、なんのことはない、安保のことを知りたくなかっただけなんです。
安保闘争イコール 『アカ』、単純にそう思い込んでいた、いや 世間の雰囲気でそう思い込まされていた、そういうことだったんです。

安保は一つの例ですが、つい最近亡くなった小田実氏が 本当に言いたかったこととか、丸山真男氏や 吉本隆明氏の言説なんか、知ろうともしませんでしたもの。

私が特別じゃなかったと思います。
ちょっとでもいい暮らしを求めて、そんな“どうでもええ”ことに構ってられなかった、それが“ふつう”の日本人の 『戦後』 ではなかったでしょうか。

例外だったのが、60年安保の学生たち、70年安保の学生たちだったのかも知れません。
私自身の時代証言的には 少なくとも70年安保の学生たちのなかには、安保のこと、大学の将来のことを真剣に考えている学生がいました。

60年安保のとき、私は中学2年生でした。
修学旅行で東京を訪れたとき、国会議事堂前の騒ぎで東京見物がまともにできませんでした。
なんであんな大騒ぎをするのか、それを理解する力はまだありませんでしたし、関心もありませんでした。
ただ、樺美智子さんの死には、中学生だった私にもそれなりに、ただならぬことの重大さを感じました。

70年安保のとき、私は大学卒業間近でした。
本来なら卒業論文に没頭せねばならない時期を、ノンポリ学生として右往左往しつつ、それなりの主張で対処することにあけくれていました。
このときの私の主張は、別の機会にお話します。

60年安保の全学連と 70年安保の全共闘は 本質的に違う、と私は思っています。
感覚的な申しようですが、60年安保の全学連は きわめて政治的で外向的ですが、70年安保の全共闘は、彼らが総長を “吊るし上げ” するとき 口角泡を飛ばして がなりたてていた 『総括』という言葉が示すように、非常に内向的でした。

表向きは 「安保条約批准反対」でしたが、旧態依然たる大学を制度ごとぶっ壊すことを 直面の狙いとして実は、全共闘の学生自身も含め 大学人ひとり一人に 『自己批判』を迫りました。
そこには、60年安保での悲しさとは異質の虚しさがありました。
全共闘の表向き闘争対象の日米安保は、このときすでに 単なる基地貸与的な日米間の関係から 米軍の一辺境部隊化した自衛隊をからめて 日本が米国の世界戦略に積極的にくみする関係へと変化しており、全共闘のようなゲバ的闘争では もう手の施しようがない化け物に変容していたのです。

もともと日米安全保障条約は、サンフランシスコ講和条約に基づき 独立後の非武装日本の安全保障のため 米軍の日本駐留を定めた条約(昭和26年調印、昭和27年発行)でした。
日本は米国に駐留権を与えるが、駐留軍は日本防衛の義務を負わないという、片務的で米国勝手な条約です。敗戦国の悲哀でしょう。
米占領軍は、そのまま日本に駐留することになります。

在日米軍の施設や地位などに関しては、日米行政協定という取決めが、このとき同時に定められました。
この協定は、60年安保後の条約批准と同時に改定された日米地位協定に移行します。
税の免除や逮捕・裁判に関する特別優遇など各種の特権的な便宜供与を定めており、平成7年9月に起きた沖縄の米軍人による少女暴行事件がきっかけとなって、その見直しの協議が進められていますが、まだ大きな伸展は見られず、基地問題として引き摺っています。

さて、30万人を超えるデモに発展した60年安保闘争は、当時の岸信介内閣を総辞職に追いやったものの、条約は自然承認され新条約として発効されます。
この条約は、両国が自衛力の維持発展に努めること、日本および極東の平和と安全に対する 脅威の生じた際には事前協議を行ない得ること、日本施政権下の領域におけるいずれか一方への武力攻撃に対しては日米共通に対処・行動することなど、双務条約的性格が強められました。
一見 対等的条約に近づいたようですが、その実 自衛隊の米軍極東部隊化を強いられるものだったのです。
この条約の期限は10年と定められ、期限切れの70年安保につながっていきます。

ところが、70年安保闘争は、60年台後半に盛り上がった べ平連の活発な活動があったにも関わらず、反戦運動としての性格は薄く、本題の安保条約に対しても確固とした運動にはなりませんでした。
運動を引っ張るはずの全共闘は、安保の問題を放っぽりだして 共産系の民青との諍いに終始し、挙句は非合法闘争に走って、一般学生や市民の共感を得られずに内へ内へと篭っていきます。

そして、そのごく一部である極左集団は、よど号ハイジャック事件、あさま山荘事件、反社会的運動へと 沈んでいきます。

全共闘は、自治会などの既存の運動組織や党派などの指導によらず、クラス、サークルといった 仲間集団を単位とした自発的な闘争体の連合でした。
60年安保の全学連に見られた各大学自治会の連合組織という性格はなく、個人が主体の連合体であったので、その矛先が 「自己否定」や 「自己改革」といった個人の人格に向けられ、『内ゲバ』で代表されるように、非社会的な病的内向性闘争体に陥ってしまったのです。

70年安保闘争は、結果的に、安保の真摯な見直しを促す力になれなかったどころか、反対に安保を右寄りな一方的判断で継続してしまう恰好の言い訳を与えてしまいました。
なぜなら、大多数の良識ある学生や一般市民の目は 機動隊学内乱入や気違いじみた内ゲバ闘争に奪われ、彼らが肝心の安保そのものをじっくり検討する機会を逸してしまったからです。

その後の安保はどうなったのか。
80年安保闘争も、90年安保闘争もなく、安保は自動継続されていきました。
安保の重点は 当初の基地貸与から共同防衛へと移り、米国は日本に 財政的負担と極東の秩序における 役割分担を求めてきました。
それなのに、安保に関心を示す日本国民は、特に若者は、ほんとうに少なくなりました。

平成3年(1991年)1月、湾岸戦争が起こります。
このとき日本は、多国籍軍への国際貢献として130億ドルを支援しましたが、自衛隊の派遣は拒否しました。
米国は、日本の貢献の方法をなじりました。

その翌年の1月、ブッシュ大統領が来日し 宮沢首相と会談します。
反戦の旗手であるはずの宮沢喜一氏ですら、新時代における日米相互の責任を明示した<東京宣言> を 共同発表せざるを得ませんでした。
その年、PKO協力法、国際緊急援助派遣法が成立し、自衛隊がカンボジアへ派遣されるに至ります。

平成9年(1997年)9月、 『日本周辺有事』 の際の日米協力関係を全面にうち出した新指針 「ガイドライン」が合意・成立します。
その2年後にはガイドライン関連三法が制定され、他国の戦争への協力が公然と認められるに至ったのです。

さて、この私ですが、70年安保以後つい最近まで、安保のことなど頭の隅にもありませんでした。
それが、もう何んにもできそうもない年齢になって改めて、孫たちの未来を憂えて安保の行く末を案じています。
滑稽ですが、まじめです。

この日本という愛すべき国の将来を考えるとき、根幹に日本国憲法があり、それを左右するキーポイントが安保であることは、政治音痴の私でも理解できます。

戦後60年余り、日本はアメリカの庇護のもとで ここまでやってこれました。
でも、今のアメリカは、薄汚いガキだった私たちにヌガーチョコを恵んでくれた あのアメリカと 同じではありません。
もちろん今の日本も 戦後の極貧の日本から びっくりの変化を遂げています。

むずかしい問題ですが、心意気だけは60年安保、70年安保の真剣さで、今、安保をもう一度 じっくり考えなければならない時期にきています。