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サトウキビ畑の迷路

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私の 「こころ旅」の風景は、たぶん行っては頂けないだろうと思いながら、それでも、この手紙を書かずにはいられない気持ちでペンをとりました。
「こんな坂を登らされて可哀想だよ」とか 「恐がっているのにどうしてこんな高所へ連れていくんだ!」とか 正平(火野正平)さんの代弁者のようにして一緒に番組を見ていた夫は、昨年二月の寒い朝、一人で旅立って行きました。
桜の季節も新緑の季節も過ぎ、秋風の吹き始める頃、NHKだったと思うのですが、或るドキュメンタリー番組を見て、唐突に<この島に行ってみたい!>と思い、後先も考えず船・飛行機を予約しました。
それは鹿児島の喜界島です。
予約から三ヶ月近くのち、40時間の船旅のあと飛行機に25分乗り、やっと着きました。
奄美大島に着いた時は雨だった天気も、喜界島に着く頃には、すっかり晴れました。
翌日、島めぐりをしようと、バスに乗りました、乗客は私ひとりでした。
島の北端のムチャカナ公園という所で、降りました。
バスを降りるとき運転手さんが、「ここを下って海岸線に出ると、島の北端から東側を走る県道に出るから、県道だったらバス停でなくても手をあげたらバスは止まるから」と教えてくれました。
ひとり青い海に向かって、公園がある丘から海岸線へのこみちを下り、南国の草木が生い繁る道をしばらく行くと、小高い丘に真っ白な灯台が見えました。
灯台のまわりは、一面のサトウキビ畑です。
海岸線に飽きた私は、良いことを思いつきました。サトウキビ畑の中を縦横に走っている道を辿っていけば、早く県道に出られるに違いないと。
それからどれくらい歩いたでしょうか、二時間近くサトウキビ畑を彷徨っていた私は《山で遭難したことがない私なのに、このサトウキビ畑で遭難するかもしれない》と思いました。
それでも歩いて行くと、やっと一人、畑で働いている男性を見つけて、道を聞くことができました。
男性は、こともなげに 「その道を下ると県道に出るよ」と言いました。
その10分後、私は 〝志戸桶(しとおけ)〟というバス停に、無事着くことができました。
そして、夫がいなくなってからずっと、夫のことだけで占められていた私の心が、自分一人で生きていく方向に変わったことに気づいた瞬間でした。
正平さん、あのサトウキビ畑の迷路、ぜひ体験してみて頂けたら、と思います。


これは、俳優の火野正平が自転車で日本の各地を旅するNHK番組 『にっぽん縦断 こころ旅』、その597日目で喜界島を旅するきっかけとなった便りです。
埼玉県寄居町・堀田ちか子さん(69歳(2015年のお便り時点で))のお便りです。

火野正平といえば、40年以上も前、テレビドラマ 『それぞれの秋』で、気弱な主人公・小倉一郎をそそのかして 電車の中で痴漢させる友人役の印象が強くて、けっこうなワルと思い込んでいたのですが、この 『こころ旅』の番組を見るようになってから、すっかりファンになりました。
東京出身なのに、ほんとに関西弁がうまい。
その関西弁は洗練されて まぁるくなって、火野正平が喋ると 耳にとても心地よいのです。

実は、志戸桶という地名に、ちょっと思い入れがあります。
太極拳教室の古参の生徒さんに、喜界島出身のKさんがいます。
「実家から送ってきたんで・・・」と言って、ときどきKさんから黒糖をいただきます。
口に放り込むと、フワァっと広がるまろやかぁな甘さ、格別です。
南村製糖、と表示された住所は、喜界島志戸桶。
こんなにおいしい黒糖が作れるサトウキビ畑って、どんなだろう、口の中で志戸桶の黒糖を転がしながら 空想していました。

番組では、自転車の火野正平も、サトウキビ畑で道に迷います。
大人の背の倍以上に生い茂ったサトウキビ畑の森は、地図を頼りに走る正平さんでも 汗だくでヒヤヒヤもんの迷路です。
まして女一人、堀田ちか子さんは どんなに心細かったでしょう。

ムチャカナ公園を出発した頃は、森山良子の歌う<さとうきび畑>なんかを口ずさんでいたかも知れませんが、両側を壁のようなサトウキビ畑に挟まれて 長いこと彷徨った堀田さんは、まさしく《死ぬ思い》をされたに違いありません。
その恐ろしい思いが、悲しい過去を断ち切るキッカケになったのですね。
その気持ち、理解できます。

鬱の谷間を彷徨っていた頃に読んだ 「鬱から抜け出す方法」とかなんとかいう本に、こんな場面がありました。
家に閉じ籠っていた鬱青年が、押し入り強盗と玄関先で出くわします。
鬱青年は、とっさに外へ飛び出し、裏山へ逃げ登ります。
押し入り強盗が、鬱青年を追いかけます(これは鬱青年の妄想)。
逃げても逃げても、強盗は青年を追いかけます(これも妄想)。
やっとの思いで青年は、裏山の見晴らしのいい頂に着きました。
振り返ると、強盗は追って来ません。
鬱青年は、晴れ晴れした表情で、遥か彼方の、長いあいだ引き籠っていた我が家を眺めます。
青年から、もう鬱は、どこかへ去っていました。

志戸桶のバス停の木のベンチに、よいしょと座った火野正平は、堀田ちか子さんの手紙を読み返します。
そして、江戸っ子弁混じりの関西弁で独りごと。
「女の人、ひとりで歩いて、あれは たいへんやったと思うワ、自転車でも けっこう判んなくなるのに・・・
サトウキビ畑のなか彷徨って、人に道聞いたりして、自分一人で生きていく方向に変わったことに気づいた。
偉い!エライ!いつまでも悲しんでいてもアカンし・・・
でも一人であそこ、行かはった!たいしたもんや。
俺たちはどうにか、最後には教えていただいて辿り着いたけど・・・」

南村製糖の黒糖を もう一片、口に放り込んで、わたしも 堀田さんの便りを反芻しながら、サトウキビ畑を空想で彷徨っています。
抜け出せた歓びも、思い描きながら・・・