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吉備の中山

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岡山から総社へ至るJR線は、桃太郎線の愛称を持つ。
吉備路を走る単線、吉備線のことである。
岡山を出た桃太郎線は、トコトコと西に向う。
しばらく走ると、一回り大きな三輪山を髣髴とさせる 吉備の中山が、前方 突き当たりに現れる。
ジーゼル車は、これを畏れるように避けて、北行。
中山の東から北西へとグルリと迂回して西行し、造山古墳や作山古墳などの吉備巨大古墳群の北側を通って、総社を目指す。

吉備には、出雲や筑紫と同じく、中央集権国家となったヤマトとは異なる 独特の魅力がある。
‘ヤマトは国のまほろば’と よく言われるが、吉備も それに劣らず 「まほろばの地」である。
この 「まほろばの地」吉備を創ったのが、桃太郎伝説の主とされる、大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)だ。
吉備津神社や吉備津彦神社のご神体である中山のてっぺん、茶臼山古墳に埋葬されていることになっている。

そのむかし このあたりは、温羅(うら)という鬼が暴れまわっていた。
伝承によると、温羅は 吉備の外から飛来して吉備に住み着き、製鉄技術を吉備地域へもたらして、このあたりを支配していた。
吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたので、これを救おうと崇神天皇(第10代)は、孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍のひとりの吉備津彦命を遣わした。
吉備津彦命は、すったもんだの末 ついに温羅を退治し、その骨を吉備津宮の釜殿の竈(吉備津神社の御竈殿)の地中深くに埋めた。
それでも 温羅のうなり声は、13年間 鳴り止まなかった。
そこで、温羅の妻の阿曽媛(あそひめ)に釜殿の神饌を炊かせる神事を執り行わせると、うなり声は鎮まった。
有名な吉備津神社の鳴釜神事は、釜の鳴動で吉凶を占う神事であるが、吉凶を占う存在となった温羅の骨に由来するらしい。

数年前、仕事がらみで、奥出雲のたたら集団のことを 少し調べたことがある。
奥出雲はヤマタノオロチ伝説で有名だが、ヤマタノオロチも温羅と同様、高い製鉄技術をもった渡来集団であった。
温羅は、ひょっとすると、スサノオノミコトに追われたヤマタノオロチ集団が 中国山脈を越えて吉備に住み着いたのかも知れない。

吉備津神社の参道両側に、神池がある。
オシドリだろうか、羽の色が鮮やかな水鳥たちが、のんきそうに泳いでいる。
池の真ん中に それぞれ渡り小島があって、小さな祠が建っている。
本殿に向かって 左が亀島神社、右が靏島神社である。
それぞれ、水の神、風の神で、海上安全の神を祀ってある。
おおむかし、瀬戸内の海水は、中山の北端に位置する吉備津彦神社の神池まで来ていた。
だから、吉備の津、吉備津なのだろうか。
吉備の中山が瀬戸内に接していたとするなら、高い稲作技術と製鉄技術をもった朝鮮半島経由の渡来人がこの地に来ることは、出雲に上陸し中国山脈を越えて来なくても、もっと容易だったかも知れない。


吉備路を歩いて旅するのは、ひとつの夢だった。
本格的な徒歩の旅は、脚力の衰えたいま 叶うことはできないが、吉備路の歩き旅のさわりを 春まだ浅き中山路で味わった。
吉備国の中心である吉備の中山の北側、吉備津神社から吉備津彦神社に至る 「吉備中山の路」の、ほんのちょっとの歩き旅。
歩数にして10000歩にも満たない、でも 時間の流れが常の数倍長く感じられる道行であった。

桃太郎線 「備前一宮」駅から、キハ40系ジーゼル車。


備前国の一宮、吉備津彦神社の拝殿にて。


備前国と備中国を分ける細谷川。


備中国の一宮、吉備津神社の本殿(国宝)を遠望。