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快慶仏

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いま、奈良国立博物館で 「特別展・快慶~日本人を魅了した仏のかたち」が開かれている(6月4日まで)。

仏像は お堂のなかで拝するのがいい、これは わたしのこだわりだが、今回の 「快慶展」は 快慶作と認められている仏像の八割が一同に会している とのことで、見逃すわけにはいかない。
ということで、5月の連休中の一日を割いて 新緑の奈良を訪ねた。

この4月の末、播州・小野に在る浄土寺で、快慶作の阿弥陀三尊像を拝している。
阿弥陀立像は 高さ5m30cm、両脇侍の観音・勢至像は 高さ3m70cm、まことに大きな仏さまだ。
通常の来迎印とは違って、右手を下げて手の平を前に向け(逆手与願印)、左手は胸の高さまで上げて手の平を上に向け 親指と人差し指および中指で輪を作っておられる。
お堂の浄土堂(阿弥陀堂)は、この三尊像に合わせて作られたのだろう、桁行き三間 梁間三間 単層 本瓦葺屋根宝形造りの、堂々としたものだ。

この浄土寺に在るべき、快慶作のもう一体の阿弥陀如来立像(裸形)と重源(ちょうげん)上人坐像が、見あたらない。
じつは、奈良博物館に行っている と言うことから、快慶展の催しを知った。
さすがに、5mを越える阿弥陀三尊は、持ち出せなかったとみえる。

希しくも この秋、東京で 「運慶展」が開かれると聞く。
運慶と快慶、ともに鎌倉時代を代表する仏師である。

どちらかと言うと わたしは、快慶の方が性に合っている。

例えが突飛だが、ミケランジェロとラファエロみたいだ と思っている。
飛び抜けて秀れたアーティストが、運慶であり、ミケランジェロで、ある意味 偏った天才である。

抑制的な情熱と気品に満ちた作風が、快慶とラファエロには 共通している。
優雅さや抑制感という 優れた芸術の真髄を、両者とも 持ち合わせていた。
ともに、とても敬虔な信仰者ではなかったか。

仏像は、信仰の対象である。
フレスコ宗教画も、同様であるはずだ。
これらは、作者の敬虔な信仰心なくしては、なりたたない。
極端に言えば、作者なんか見えない方がいいのである。

作者の自我が見えるか没するか、それが、鎌倉時代の仏像に どうしても違和感を覚えてしまう理由であり、天平時代以前の仏像に 限りなく惹かれる理由である。
仏像を芸術作品としてみたくない という、これは わたしの独りよがりに過ぎないのだが・・・

運慶の作で素晴らしい仏さまだと感ずるのは、奈良・円成寺の多宝塔に安置されている 「大日如来像」だが、これに対峙する快慶作の仏さまは、京都・醍醐寺三宝院の 「弥勒菩薩坐像」だと考えている。
ともに、作者早期の作品で、仏像彫刻に賭ける作者の 一途な若い真撃さが感じ取れる。

以前、快慶の弥勒菩薩坐像を見たさに 三宝院を訪れたが、向こうの方におわすお姿しか拝見できず、残念な思いをした。
今回の展示会では、入場してすぐのところで まじかに拝することができて、じっくり鑑賞することができた。
漆箔のきらびやかな金色ではなく、金泥塗りの落ち着いた輝きを、目の前で感じることができた。
金泥の粉末金が乱反射して、輝きに深みを与える ということが、実感されたのである。

奈良 興福寺・北円堂にある 運慶作(実際には慶派一派の共同作か)「世親・無著像(せしん・むちゃくぞう)」は、日本の彫刻史上 もっとも優れた作品だと思うのだが、これに匹敵する作品として、快慶の 「僧形八幡神坐像(そうぎょうはちまんしんざぞう)」(東大寺勧進所蔵)を挙げたい。

若いころ 正直、この像が好きになれなかった。
カタログでしか 観ていなかったということ、また 仏像でなく神像(神様の像)だという理由もあったと思う。
今回の展示会で、この像の謂れを知り、至近距離から坐像を拝見して、考えが180度 変わった。
坐像の正面からだけでなく 両横顔をじっくり拝顔、なんと凛々しいお顔なのだろう。
とびきりハンサムな神像。
大分県宇佐八幡宮から勧請してきた この像が担う、東大寺を聖域として守る という役割、大仏様と同じくらい大事なお像なのだそうな・・・

最前線の南大門で東大寺を守る仁王像とともに、こんな大事なお像を任せられた快慶という仏師を、それも こんなにハンサムな神像に創り上げた巧匠・快慶を、改めて見直した展示会であった。