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‘智の巨人’の入信

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北九州を襲った豪雨災害のニュースに接し、なんて科学は無力なんだろう、と思いました。
科学は、‘智’の結晶ですよね。
ならば、なんて ‘智’は無力なんだろう、と。
‘智’が無力ならば、祈るしかない。

‘智の巨人’と言われた人がいます。
加藤周一。
丸山眞男や鶴見俊輔や井上ひさしや大江健三郎や・・・多くの錚々たる知識人に支持された、‘智の巨人’です。

その ‘智の巨人’が、最晩年にカトリックに入信していました。
そのことを、或る雑誌に載っていた対談記事 『男の「ひとり」VS女の「ひとり」』(山折哲雄と上野千鶴子)で識りました。
かなりのショックを受けました。
上野千鶴子は、「ブルータス、お前もか」という常套句で、その驚きを表現しています。

正直言いますと、私は、加藤周一について ほとんど無知です。
日本の大いなる知識人たちと見なされている人たちが、こぞって ‘智の巨人’だと言うのだから、凄い人なのだろう、その程度です。
ただ、何かの本で、加藤周一が 「自分は宗教に知的関心はある。しかし宗教の説く縁起と神秘、この二つはまっぴらごめんだ」というような内容のことを言っていたのは、知っています。
その彼が、最晩年、カトリックに入信していたのです。

この世には、人間の英知を以ってしても どうにもならないことが、山ほどあります。
人災とは言え 福島第一原発事故や、3年前の広島北部の土砂災害、去年4月の熊本地震などの天災は、記憶に新しいものです。
そして、今回の北九州豪雨による流木土石流災害。

あんな不幸にみまわれても、「みなさんのお陰で助かりました」と感謝の心を失っていない、被災者の映像を見るにつけ、人間に究極的に必要なのは、感謝の言葉を発せさせる 祈りの心なのではなかろうか、そう思い至ります。
祈りの心を、宗教と簡単に呼ばないで欲しい。

人が迎える究極の時、死に対峙するとき、科学は、智は、なんの役にも立たないのではないか。
死の淵から救われた被災者の言葉を聞いて、加藤周一の最晩年の入信を知って、そんな感慨を覚えました。