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にんげんだもの

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わたしの小さな書斎の壁に、一枚のA3版仏像写真が掛かっています。
中学生のころ買ってもらった、辻本米三郎撮影の《興福寺の山田寺仏頭》。
あの有名な阿修羅像が、たくさんの仏像といっしょに宝物館の粗末なガラス戸棚にしまわれていた頃です。

長らく仕舞い込んでいた この写真を、西ノ京の家のプレールームに掲げ出したのは、40歳になった頃でした。
相田みつを著 『にんげんだもの』に載っていた、つぎの詩に出会ったからです。

「こんな顔で--山田寺の仏頭によせて」
宮沢賢治の詩にある 「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」というのは
こんな顔の人をいうのだろうか--

この顔は
かなしみに堪えた顔である
くるしみに堪えた顔である
人の世の様々な批判に
じっと堪えた顔である
そして
ひとことも弁解をしない顔である
なんにも言いわけをしない顔である
そしてまた
どんなにくるしくても
どんなにつらくても
決して弱音を吐かない顔である
絶対にぐちを言わない顔である
そのかわり
やらねばならぬことは
ただ黙ってやってゆく、という
固い意志の顔である
一番大事なものに
一番大事ないのちをかけてゆく--
そういうキゼンとした顔である

この眼の深さを見るがいい
深い眼(まなこ)の底にある
さらに深い憂いを見るがいい
弁解や言いわけばかりしている人間には
この深い憂いはできない

息子よ
こんな顔で生きて欲しい
娘よ
こんな顔の若者と
めぐり逢って欲しい


太極拳十訣のひとつに、「用意不用力」という言葉があります。
文字通り、「意を用いて力を用いず」という意味ですが、門外漢には少し判りにくい。
太極拳の老師・笠尾楊柳氏は、著書 『太極拳に学ぶ身体操作の知恵』(BABジャパン発行)の中で、相田みつをの詩を引用して この言葉を判りやすく説明しています。
その詩は、『にんげんだもの』に収められている 次のようなものです。

「入力不力」
りきんだらダメ
たるんでもダメ
ちからをいれてりきまず
それがなかなか
むずかしいんだよなあ

相田みつをは、道元に心酔していました。
「入力」は、ちからを入れる、で、自力主義なにおいがします。
《只管打坐》は道元の究極ですが、「只管」は、ただひたすら。
相田みつをは また、親鸞にも惹かれていました。
「不力」は、りきまず、で、他力主義のにおいがします。
《念仏三昧》は親鸞の師・法然が唱えた教えですが、「三昧」も、ただひたすら。
ただひたすら念仏を唱えることに命をかけた親鸞と、ただひたすら坐るだけの道元とは、つまるところ同じ道を歩んだ人でした。

相田みつをの詩には、(只の意味の)「ただ」が、頻繁に出てきます。
煩悩多き人間は、この 「ただ」が なかなかできない。
それを具体的に指し示した言葉が、「用意」、意を用いることなのだと、わたしは解釈しています。


相田みつをのアトリエの壁には、入江泰吉撮影の大きなカラー写真《月光菩薩》が掛かっていたそうです。
彼は この写真を、美術品としてよりも 仏さまとして、眺めていたに違いありません。

わたしの小さな書斎に掛けた白黒写真《山田寺仏頭》も、仏さまです。
それは、相田みつをの詩《こんな顔で》を想起しての、思いです。
「君看よ、双眼の色。語らざれば、憂い無きに似たり」の このお顔は、仏さま以外の何ものでもありません。

《山田寺仏頭》の写真に日々接しながら、詩集 『にんげんだもの』は、わたしの羅針盤であり続けるでしょう。