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実盛と義仲

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芭蕉の句に、「むざんやな 兜の下の きりぎりす」というのがある。
“奥の細道”の途中、石川県小松市にある 多太(ただ)神社に立ち寄ったとき 詠んだ句である。
ここには、伝説の兜が奉納されている。

平安末期、源平合戦の真っ最中、兜の持ち主だった齋藤実盛は、平家の武将として戦っていた。
倶利伽羅峠の合戦で敗れ、加賀の篠原に陣を張って再び戦ったが、木曽義仲軍の前に総崩れとなった。
実盛は、老体に鞭打って踏みとどまり、奮闘して討ち死にする。
時に実盛73歳、覚悟の討ち死にであった。
老いを侮られぬように と、白髪を黒く染めての出陣であった。

義仲がその首を池で洗わせると、墨で塗った黒い髪がみるみる白くなり、幼い頃に命を救ってくれた実盛だとわかる。
義仲は、人目もはばからず涙したという。
後に、義仲が戦勝祈願のお礼と実盛の供養のために、多太神社に兜を奉納したのである。

この兜にまつわる実盛と義仲の話は、『平家物語』巻第七に 「実盛」として語られている。


粟津、山代、山中、片山津の加賀温泉郷は、関西の奥座敷とも言われる。
いまは、北陸新幹線の開通に伴って 東京方面からのアクセスも便利になったが、関西人にとって 今も加賀温泉郷は、有馬温泉や城崎温泉に匹敵する親しみがある。
しかし、山中温泉の一部を除いて、かっての賑わいは いまの加賀温泉郷にはない。

片山津温泉のある柴山潟は、その6割が干拓された寂しい湖である。
バンという真っ黒な鴨がいっぱい、冬の柴山潟に浮かんでいた。
実盛の首を洗ったという池が、この柴山潟の近くにある。

夕食までまだ少し時間があったので、宿から歩いて 実盛の 「首洗池」を訪ねた。
この地方では “雪起こし”と呼ばれる冬の雷が、小雪混じりの寒雨を横殴りに吹き付ける風を呼び起こしていた。
潟から日本海に至る放水路、新堀川に沿って、風に逆らうように傘を斜め横に差しながら進む。
宿の人に聞いた 「15分くらいのところ」は、半時間くらい歩いたように感じた。
あたりは、夕暮れの暗さになっていた。





「首洗池」の西側は小高い丘で、「手塚山」という。
実盛の首を取った手塚太郎光盛から、名付けられたのであろうか。
この手塚山側の麓に、実盛の首を膝に抱え 天を仰いで涙する、木曽義仲の像があった。
薄暗い夕暮れの雨に濡れて、その像は誘蛾灯の明かりに光っていた。