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祈りの幕が下りる時

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「映画はテレビと違って逃げられない。お金を払って、劇場の空間に入れられて、目の前にスクリーンしかないわけですから。つまらないものを観せられたら苦痛でしかない。」
と、福澤克男監督は言う。
「“泣ける”や “感動する”の前に “2時間を飽きさせないこと”」だと。
まったく同感です。

福澤監督作品 『祈りの幕が下りる時』は、飽きるどころか、最初から最後まで寝ている間などない、のめり込むが後味のいい映画です。
原作者・東野圭吾、脚本家・李正美の、ひととなりの賜物でもあるのでしょう。


テレビドラマや映画好きの方なら、『新参者』シリーズ、加賀恭一郎に魅せられているはずです。
阿部寛のはまり役である このシリーズの最終章 『祈りの幕が下りる時』は、見逃せない作品です。
あぁ これでもう、『新参者』は観られないのか、と。
だから 期待が大きいだけに、つまらない作品であってはならない、そんな観る者のわがままが詰まっているのです。

期待通り、いや それ以上。
なぜなら、“加賀の母の失踪”の真相も、加賀がなぜ捜査一課から日本橋署の “新参者”になったのか、なぜ あれほどまでに人形町にこだわるのか、そういう ずっと引っかかっていた謎が、きれいに解けたからです。
その “謎解き”を、浅居博美(松嶋菜々子)という強烈で不憫なキャラクターを絡ませてドキドキさせながら完結させていく、という 憎いほどの流れ。


阿部寛が、スペシャルインタビューで こう述べています。
「 『新参者』シリーズには、凶悪犯やテロ犯、猟奇的な犯人は出てこない。そこでは誰もが何かのきっかけで犯罪に走ってしまう。魔が指すとか、そういう人の弱さをテーマにしている。それを加賀が、犯罪者の悲しみも背負いながら紐解いていく。ただ犯人を捕まえるだけではなくて、犯人の苦悩も解決していく。だから、たぶん読後感や鑑賞後の後味がいい。なにか優しいもの・・・人間の心みたいなものを見た人には汲み取っていただけているのかもしれません。」
阿部寛が感じた通り、原作者・東野圭吾は、単に謎に包まれた殺人事件の真犯人を探すというミステリーだけでなく、事件の裏に隠された人の心の謎を解くというヒューマンドラマを描きたかったに違いありません。

わたしは、原作者が題名 『祈りの幕が下りる時』に込めたメッセージは何だろうか、と考えます。
“祈り”は、ヒロイン浅居博美が抱える祈りと同時に、加賀恭一郎が抱き続けた祈り、なのでしょう。
どちらも、祈りは父や母への恋慕です。
そして “幕”は、博美が父との約束をかなえるために演じ続けた役柄に下ろす幕と同時に、恭一郎が母の愛を確認するために探し続けた旅に下ろす幕、なのだと思います。

博美は、父・忠雄(小日向文世)が自分にしてくれた とてつもなく深い愛に報いるために、まっとうな自分にならねば と強く生きてきた。
でも もう、そろそろ終わりにしたいと思っている。
恭一郎は、母(伊藤蘭)の失踪の原因を父(山崎努)に被せ続ける自分を許すためには、母が死ぬ時まで自分を思っていてくれて欲しかった。
そのためには、失踪後の母の人生が決して不幸せでなかったことを確認する手づるが、どうしても欲しかった。
原作者は、この二人に、(恭一郎の母の失踪後の恋人が博美の父であったという)運命的な交差をさせて、見事に彼らの幕を下ろさせるのです。


これ以上述べると、ネタばらしになりそうなので・・・
ひとつだけ、強烈に印象的なシーンを紹介して、映画賛歌を終えます。

14歳の浅居博美(桜田ひより)が、逃避行の末に死を覚悟した父・忠雄と最後の贅沢に泊まる宿。
父の自殺を思いとどめさせたくて、無銭の父を救いたくて、宿を抜け出して、行きずりの原発作業員の誘惑に身をゆだねるべく近づくワゴン車。
かなり長い、ワゴン車の静止撮り。
映画を観る者に、あれこれ想像さすに十分すぎる静止撮り。
一転、暗いトンネルを駆ける博美、博美を探してトンネルの反対側の入り口から走ってくる忠雄。
原発作業員の首に刺さった とどめの割りばしを見て、忠雄は思いもよらない “嘘”のストーリーを、博美と共演することになる。

そのストーリーを手短に教えて、父と娘は生きながらの死別をするのです。
「お父ちゃん、お父ちゃん!」、裸電球に薄暗く浮かぶトンネルの中の親子、無理やり逃がす父を呼ぶ娘の叫び。
この定番の場面、涙なしには見られないこの場面を、どうしても紹介したかった。

蛇足ですが、このトンネル、伊豆天城越えの旧トンネルではないでしょうか?