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森岡峻山先生

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寺町二条を少し下がったところに、清課堂という鍚製工芸品の店がある。
下の画像は、このお店の看板である。



清課堂は、天保9年(1838年)、初代山中源兵衛がこの地で 「鍚源」を名乗って開業、鍚を素材にした金属工芸品を製造販売してきた老舗である。
この店の看板に、森岡峻山先生が揮毫されていたことを知ったのは、つい最近だ。
先生の篆書を久しぶりに見て、懐かしさと同時に、やっぱり森岡峻山の篆書はピカ一だと、誇らしい気持ちになった。
やっぱり、先生の篆書はすばらしい。

室町六角下ルにある龍門社に習字を習いに通い始めたのは、小学校1年のときだったから、もう60年以上前になる。
休み休みだったが、24歳まで峻山先生の指導を受けた。
年季だけは長かったので、結婚と就職の祝いを兼ねてだったと想像するが、『秀山』という名前までいただいた。
「篆書を教えてへん生徒に名前をやるのは、お前が初めてや」とのお言葉を添えていただいて・・・
もうちょっと真面目に通って、篆書を習えるまでになっておけばよかった、そう後悔している。

室町六角下ルの龍門社には、思い出がいっぱいだ。

室町通りから西へ路地を入ると、竹で編んだ木戸の向こうに大きな庭があった。
その庭の飛び石を踏みながら通って、庇の長い平屋の大きな沓脱石から、20畳以上はあったと記憶する大部屋へ上がる。
この大部屋が待合室で、その続き間、広い縁側のある12畳くらいの部屋が、お稽古場だ。
この縁側は廊下となって奥に続いていて、先生の奥様がときどき先生のお茶を運んでおられた。

お稽古場には大きな長方形の文机があり、先生はこの文机の長手方向奥間側真ん中に座って指導されていた。
先生から見て左右に一人づつ、向かいに三人、計5名の生徒が座る。
先生は、筆を持った生徒の手の上から握って、左右にも向いにも、手本の字を書かれる。
神業であった。

毎回宿題を出されるのだが、宿題を忘れたものは、鼻をつままれた。
結構痛いつまみ方だった。
二回に一回、わたしは痛い鼻つまみを経験した。

寒い日だった。
お稽古の順番待ちに飽いて、お手本帖を勧進帳に見立てて遊んでいた。
寒いから、火鉢の上で勧進帳を開けたり閉じたり・・・
お手本帖に火が燃え移った。
先生がすっ飛んでこられた。
庭の手水鉢の水を庭にあったバケツに汲んで、わたしの背後から頭越しに水をぶっかけられた。
火は無事に消えた。
びしょ濡れのわたしは、恥ずかしさと寒さと先生のお目玉で、ガタガタ震えていた。

大学1年の時、夏書(げがき)に参加した。
夏書は、夏の1週間、寺に籠って、龍門社書展に出品する作品を集中練習する催しだ。
その夏は、南禅寺の(名前は忘れた)塔頭で催された。
先輩たちの見事な筆さばき、墨のにおい、南禅寺境内を渡る涼しい風、蝉しぐれ・・・
夕食前の、先生を囲む語らい・・・
練習の合間に、水路閣の上を流れる疎水べりを散策、時間がとまったような・・・
どれも、忘れられない思い出である。

峻山先生のグサリとくる言葉はいっぱいあるが、中でも次の言葉は、わたしの人生を左右する言葉となった。
---迷ったとき、フィフティーフィフティーなら、積極的な方を選びなさい---
結婚も就職も、そして事業の大切な岐路の時も、この言葉に従ってなんとか、これまで来れた。

先生が残してくださったお手本帖が、手元にある。
後赤壁賦の一部である。