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私本大原御幸

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中谷治宇二郎(なかやじうじろう)という “無名作家”がいた。
世界で初めて人工雪の製作に成功した物理学者・中谷宇吉郎の弟である。

治宇二郎が 石川県の小松中学五年のときに書いた小説に、『獨創者の喜び』というのがある。
平家物語に主題を取って書いた、短い小説である。
これを芥川竜之介が読んで、いたく感動して、『一人の無名作家』という短文を残している。

学生だった治宇二郎は、同窓の文学青年たちと 『跫音』という名前の同人雑誌を出していた。
獨創者の喜び』もその雑誌に載せられていたのだが、この雑誌を菊池寛のところへ送っていた。
菊池がそれを芥川に見せたものらしい。
このことは、早世した弟を回顧して、中谷宇吉郎が 『百日物語』の中で述べている。

この小説 『獨創者の喜び』は、三回に分かれている。
一は、平家物語の作者が、大原御幸のところまできて、少しも筆が進まなくなって、そのうち、突然、インスピレーションを感じて、--甍破れては霧不断の香を焚き、枢(とぼそ)落ちては月常住の灯を桃(かか)ぐ--と、悦に入って綴るところが書いてある。
二は、平家物語の註釈者のことで、この註釈者が、今引用した--甍破れては・・・のところへきて、その語句の出所などを調べたり考えたりするけれども、どうしても解らないので、俺などはまだ学問が足りないのだ、平家物語を註釈する程に学問が出来ていないのだと言って、慨嘆して筆を擱くところが書いてある。
三は、作者(中谷治宇二郎)の時代で、中学校の国語の先生が、生徒に大原御幸の講義をしているところで、先生が、この--甍破れては霧不断の香を焚き・・・というような語句は、昔からその出所が解らないとされていると言うと、席の隅のほうにいた生徒が 「ふん、そこが獨創者の喜びだ」と独り言のように呟くところが書いてある。

治宇二郎は、自分の身の一部のごとく、平家物語を深く深く理解していたのであろう。
物語の各所に、自分にしか解しえない輝きを見つけ、‘獨創者の喜び’を味わっていたに違いない。
芥川の短文 『一人の無名作家』の末尾に、「その青年の事は、折々今でも思ひ出します。才を抱いて、埋もれてゆく人は、外にも沢山ある事と思ひます。」とある。


『私本大原御幸』を著した 後藤武雄(ごとうたけお)氏も、その一人ではなかろうか。
治宇二郎と同じように、彼も平家物語をこよなく愛した人であった。

高倉帝の中宮・建礼門院が傷心の身を京都洛北大原の里に寄せられた文治元年から800年となる昭和60年、後藤氏は 『私本大原御幸』を自費出版した。
大正12年生まれの後藤氏は、大原の地に生まれ育ち、大原の地を愛し、建礼門院と同じ風土を共有した人である。

京都府の職員(建築技師)だった彼は、戦後 新学制改革の実施に当たって、京一中が洛北高校として再転誕生したとき、荒廃した校舎を整備する工事の監理・設計に献身した。
わたしの母校・洛北高校と因縁浅からぬ後藤氏の著書に触れられたのは、平家物語という日本の名著の縁でもあり、なにか運命的なものを感じる。

『私本大原御幸』で後藤氏は、無辜の民を犠牲にして繰り広げられた源平争乱の空しさを説きつつ、その中で果たされた後白河法皇のお振舞いを厳しく見つめながらも、大原御幸の折、法皇ご自身の懺悔により 「人みな、これ善人なり」と、何者をも包み込む温かいまなざしの筆致で結んでいる。
なによりも、筆者が心血を注いで描きたかったのは、建礼門院の波乱多いご生涯のお姿だった。
西海の波間に身を沈めながらも思い果たせず、そのすえ大原に隠棲、夫の高倉帝と子の安徳帝の二帝 それに一門の菩提を弔いながら、読経三昧の日々を送られた建礼門院のご生涯は、筆者を執筆に駆り立てた。
大原の地からしか発信しえない創意で彩りながら、そして筆者しか感じえない ‘獨創者の喜び’を味わいながら・・・


後藤氏の著した 『私本大原御幸』を読み終えて、大原の地から初めて誕生した傑作に触れて、誇らしい気持ちと同時に、ちょっぴりうらやましくもある。
争乱に明け暮れた治承寿永の歴史を 新たな角度から説き起こし、先人の末踏・未解の側面を鋭く掘り下げた本書を、芥川が読んでいたなら きっと、『もう一人の無名作家』の小文を残していたのでは、と夢想している。