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仏都会津

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「会津若松はいいところだよ」 のひとこと、友人・神村道治氏のひとことが、会津盆地を訪れるきっかけとなった。
会津は、政治家の中でわたしがいちばん尊敬する伊東正義の出身地、そして、気になる歴史上の人物・保科正之ゆかりの地でもある。
なによりも、会津盆地にはいい仏像があるらしい、これが会津を訪ねる大きな動機だった。


勝常寺(しょうじょうじ)は、会津盆地のほぼ真ん中あたり、会津若松の北西、福島県河沼郡湯川村にある。
会津若松駅前から坂下(ばんげ)営業所行きの会津バスに乗って 「道の駅あいづ」で下車、広々とした会津盆地を北に20分ほど歩いて、勝常寺に至る。
訪ねた季節は、5月。
風が、会津盆地を水平に吹きわたっていた。

この寺に、ケヤキの一木割矧ぎ造りの薬師如来三尊像がある。
時代的には貞観仏だが、奈良京都の仏に見られない野性味と親しみ、それはそれは魅力的な仏像である。

薬師如来坐像は、国重文の薬師堂に安置されている。
この薬師堂が、なかなかいい。
桁行5間、梁間5間の寄棟造りで、屋根はもと茅葺きであったが、今は銅板葺きである。
ガランとした自然の空間に、ひっそりと だが 堂々と建っている。
何か無性に懐かしくなる建造物だ。

この薬師堂に鎮座する薬師如来は、最適の空間におわすことになる。

薬師如来坐像の大粒の螺髪(らほつ)は別材で、一粒ひとつぶ彫って頭部に植え付けてある。
ために、例えば京都神護寺の薬師如来立像と同様、頭部が重たげで螺髪が頭に深くかぶさっており、額にあるべき白毫(びゃくごう)相がない。
衣は両肩を覆い、左手は膝上において薬師如来の標識である薬壺(やっこ)をとり、右手は前に出して掌を前に向け五指を軽く伸ばす。
太くたくましい手。
左足を外にして結跏趺坐し、左足の先端には衣の一部が巻き付いているのが印象的だ。
表面全体に金箔が押されているが かなり剥落し、下地の黒漆が露出して 厳かさを醸し出している。
漆は均等に盛られているのではなく、盛り上げたところもあれば、反対に右脛あたりでは木肌を現わして、材の表面凹凸を整える意図がうかがえる。
像高142cmというが、大きさからくる威圧感は さほど感じられない。
鼻は神護寺薬師如来像より高く ツンとしている、が、威張った感はない。
口元から顎・首にかけての迫力は、神護寺薬師如来像に勝るとも劣らないが、頬はもっとふっくらで、切れ長の目元は、鋭さよりも優しさを強調している。
深い親しみを感じる。

日光・月光菩薩立像は本来の脇侍の位置になく、収蔵庫に他の九体の国重文像とともに安置されている。
ゆえ、中尊との一体感を味わえなかったが、小顔のお顔は中尊同様ふくよかで、一目で中尊に似合う脇侍だと知れる。
日光・月光、対称的にくねらせた八頭身のお姿は、ため息が出るほど美しい。
共に、正面から見るとスリムなのだが、厚みが半端でないことが、横から拝して驚かされる。
その厚みは、醜さにかけらほども結びつかず、豊かさと親しみを生み出していることに気づく。
この脇侍はすばらしい。

勝常寺は、徳一(とくいつ)上人によって開かれた。

仏都会津は、徳一上人を抜きにしては語れない。
ところが、徳一の伝記は伝説的な色彩に覆われている。
天平宝字八年(764年)に反乱を起した恵美押勝(藤原仲麻呂)の九男という説もあるが 不確かで、生没年も定かでない。
弘法大師空海よりも二回りほど年長だったらしい。

乏しい資料によると、徳一は若いころ法相宗を学んだが、奈良の都の僧侶の堕落を憎み、そまつな食事に破れた衣を身につけ、ついに奥州に移り会津に住することになる。
徳一は、磐梯山の南麓(現在の磐梯町) の慧日寺(えにちじ) を修行の場とし、会津盆地の中央に勝常寺を建てて ここを布教の拠点とした。
そして慧日寺と勝常寺の間を幾度となく行き来した。
それが徳一にとって、理想の静寂な求道であったろう。

彼の徳は、遠く空海の知るところとなり、空海は徳一に手紙を書く。
空海が中国の唐で学び請来した密教の経論が まだ広く流伝できておらず、その書写と広報の援助を 徳一に願ったものである。
この手紙の中で空海は、徳一を菩薩と尊称し、行いは氷玉のように清らかで、その知恵は大海のように深く澄みわたっていると賛辞を惜しまない。
徳一の大衆教化の倒らないところはない、と評している。

ところであの、畿内の秀でた仏像に劣らない出来栄えの勝常寺薬師三尊像は、だれの手に成ったものであろうか。
中央から仏師を招いて造らせたのでしょうかと、案内していただいたお坊さんにたずねてみた。
前日に拝観を予約しておいた10時半に少し遅れて着いたのだが、彼は門前に出て待っていてくださった。
徳一上人が奈良の都から造像技術者を招聘したのかも知れませんね、あるいは土地の器用者を都へ技術の習得に行かせたとも考えられます、いづれにしても、中央で造って運んだのではなく、この地で造られたものと思われます、と、彼はそのほうが嬉しいと言わんばかりに説明してくれた。
そして、中央の弘仁・貞観仏には見られない大らかさが感じられるでしょ、と 独特の会津イントネーションで付け加えた。

国宝仏の北限は中尊寺金色堂内諸仏だが、中尊寺金色堂の諸仏の歴史的意義とはまた違う価値、庶民の信仰の対象としての国宝級価値の北限を、この薬師三尊像を拝していると感じずにはいられない。


会津盆地には、勝常寺の中央薬師だけでなく、上宇内薬師堂の薬師三尊像をはじめ 優れた薬師像や観音像が多く残っている。
この旅の限られた時間では、到底めぐりきることはできなかった。
残された時間を、会津若松まちなか周遊バス 「ハイカラさん」と 「あかべぇ」をフル活用して、会津若松観光に使うことにした。

神村氏が言った通り、「会津若松はいいところ」だった。
仏都会津の精神性は、そこに住む人たちの心のあり方でもある。
旧跡の感動もさることながら、今をこの地に生きている人々のぬくもりを、いたるところで感じた。
そしてなによりも、勝常寺の薬師三尊像を拝したときの 時間が止まったようなゆったり感、これがこの旅のいちばんの収穫であった。