チムグリサ |
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涙もろいのはむかしからだが、人目をはばからず涙して本を読んでいる。
隣の座席のおばさんが いぶかしそうにわたしを見ているが、そんなことはお構いない。
サンダーバードの車中のことである。
「チムグリサ」 は沖縄の言葉で、相手の立場になって悲嘆にくれること。「ああ、哀れだなあ」 「悲しくて胸が痛む」 などの意。
そう、この本の開きに書いてある。
この本というのは、『一九四五年 チムグリサ沖縄』 という120ページ足らずの薄っぺらい文庫本である。
この本を わたしは、新聞の書評欄で見つけた。
評者は丹羽宇一郎氏、元中国大使、元伊藤忠商事社長である。
書評が丹羽氏の名前だったことが、すぐにこの本を求めた 大きな理由である。
著者は大城貞俊氏、秋田魁新報社の発行である。
同書は、大城氏が長年にわたって取材してきた、沖縄の戦争体験者の 「聞き書き」 をもとにつくられた、6話からなる短編小説集である。
小説だが、6話のエピソードは作り話ではない。
多くの戦争体験者の話を聞いてきた著者が、彼ら体験者が語れなかった言葉と思いをくみ取り、体験者に迷惑をかけたり傷つけたりしないように、小説という形で世に著した。
いわば、著者の筆を借りて語られた 犠牲者たちの肉声である。
「トイレにいきますんで、この荷物 ちょっと見といてもらえますか?」
第2話で、身重の母親が 6歳の長女の手を もう一度ぎゅっと握って 力いっぱい摩文仁の断崖へ身を投げ出す ラストの場面、流れる涙を メガネを拭く素振りでごまかして、隣のおばさんの申し出に
「いいですよ、どうぞ」 と答える。
それから、ちょっとアクシデントが起こった。
戻ってきたおばさんによると、トイレの赤ランプがついたままで ノックしても応答がない というのである。
そういうと、だいぶ前から車両前方のトイレランプが赤になったままだったような気がする。
彼女が最後部の車掌室へ連絡して、ちょっと緊張気味の車掌さんが、何度もノックしたり声をかけたり。
原因がわかった。
トイレのドアが閉まるはずみでキーフックが回って、勝手に施錠してしまったらしい。
このアクシデントは、これで一件落着した。
が、その後 このおばさんとの会話が弾んで、京都に着くまでに読み終える心づもりだった 『一九四五年 チムグサリ沖縄』 の第3話以降は 京都に帰ってから、ということになった。
その週の日曜日、丸善カフェでコーヒー一杯で、最終話の第6話まで読み終えた。
6編のエピソードの中でも、最終話は最も悲惨だ。
沖縄戦の終盤、進攻してくる米軍から御真影を守り安置するため、名護で急遽編成された 25人の女学生と5人の先生の 30人の集団。
日本軍に捨てられたこの一群の、名護からヤンバル(沖縄北部の森)への逃避行で起こった、‘チムグリサ’ な出来事である。
途中で遭遇した米兵に凌辱される女学生、それを止めることもできない引率教師。
女学生が叫ぶ。
「私たちは、必死で国を守っているのに、国は何もしてくれないじゃないですか」
丹羽宇一郎氏は指摘する。
「作中、女学生の叫びとして描かれている言葉は、沖縄の声のように聞こえる」
丹羽氏は、こう続ける。
「沖縄のことをもっと知らなくてはいけない。沖縄戦の犠牲者の話を聞くことでしか、われわれは県民の20%を失うという凄惨な戦争を具体的にイメージする術がない。・・・・・・われわれは戦争の真実を知ろうとしないまま、一生を過ごすことがあってはならない」
わたしは、戦争を知らない。
それは、そういう世代なのだから、仕方ない。
だが、丹羽氏が言うように、戦争の真実を知ろうとする努力はしなければならない。
それが、戦後の幸せな日本に生きることのできる戦後世代の、つとめだと思う。
残された時間には、限りがある。
せめて沖縄戦の真実を知りたい、チムグリサの真実を知りたい。
そのとっかかりとして、『一九四五年 チムグリサ沖縄』 に触れられたことに、感謝したい。
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