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政治家・江田三郎の目指したもの

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白髪の政治家、江田三郎。
あの 田中角栄が、もっとも恐れた政治家。
現在の参議院議長・江田五月の父である。
今年、江田三郎の没後30年、生誕100年に当たる。
江田三郎が目指したもの、ひょっとして それが 今の混沌とした日本社会を救うヒントになるかも知れない。

資本主義社会の行き詰まりに対する思いを、以前 このコーナーで発信した。
ここ数ヶ月の国政や社会情勢をみていると、その思いは ますます深まるばかりである。
確固たる信条や哲学を持たない政治家たち、国民に尽くすという公僕精神の極めて薄い役人たち、倫理観を失った経営者たち、そして 自分だけよければいいという風潮の大衆。
これらは多かれ少なかれ みな、競争と拝金という 資本主義が本質的に持っている暗部がもたらした 弊害ということなのか、資本主義経済体制の歪みを矯正し制御するはずの民主主義が 未成熟なために生じた膿なのか。
何か 大きな 大切なものが、欠けている。


かって フランス革命が旗印とした「自由・平等・博愛」 という 近代民主主義の原理の内、「自由」のみが突出して現れやすい資本主義社会においては、何らかの形で 「平等」 や 「博愛」 が機能できる体制を維持しない限り、格差社会は増長し 狭隘な個人主義がまかり通る世の中になってしまう。


先日、NPO法人 「風」 が主催するセミナーに参加し、デンマークの事情に詳しい ケンジ・ステファン・スズキ氏(デンマーク国籍、「風のがっこう」代表)のお話を聴いた。
日本と同様に資源の少ないデンマークで、どうして高水準の教育、医療、福祉社会が実現できたのか。
人が生きるために必要な水と空気を汚染から守り、食料とエネルギーの国内自給に努力し、「弱いものを助ける」 という政治の愛情が感じられる社会を、現実のものとしているデンマークの実情。
そういった内容の話だった。

デンマークに見る 高福祉国家という一種の社会主義国家は、高税金、移民排斥といった代償を払って出来上がっているものであろうから、そのままを 日本の社会に導入することはできない。
が しかし、デンマークから学ぶものが たくさんある。
スズキ氏のお話を聴いて、そのことを ずっしり知らされた。

ただ 心情的には、そういう高税金・高福祉なる社会は、もうひとつピンとこない。
そんな社会って おもしろうもへったくれもないんやないか。そんな気がする。

「平等」 を徹底的に求めた共産主義。
その国家を実現しようとして 壮大な実験を行ったのが ソビエト連邦だったのだろうが、一党独裁と独裁者の温床でしかなく、完璧な平等社会は 幻想に終わった。
共産主義社会は、もはや だれの目にも 理想の姿としては写らないであろう。


では、資本主義社会に替わる理想の国家体制というものが、存在するのだろうか。

小泉純一郎元首相の看板だった 「構造改革」 とは正反対の構造改革を、その 40年以上も前に 江田三郎は提唱していた。
修正資本主義と呼ばれているものだ。
小泉純一郎の構造改革には、 「平等」 と 「博愛」 が感じられない。
江田三郎の構造改革には、バランス感覚がある。
具体的に示そう。
江田三郎が 当時 指し示した、日本が目指すべき未来像とは、

アメリカの平均した生活水準の高さ
ソ連の徹底した生活保障
イギリスの議会制民主主義
日本国憲法の平和主義


の四つを掲げている。
理想論だと一蹴してしまうのは、たやすい。
しかし、理想論すら指し示せない 今の政治家よりは、遥かに高尚だ。


正直、江田三郎の思想や人物像について 私は勉強不足である。
ただ、彼が書き残した書物を読んでいると、そこに 彼の国民に対する政治家としての責任と愛を感じる。
「博愛」 の精神が読み取れるのだ。

いま 欠けているもの、政治にも経済にも そして巷の生活にも欠けているもの、それは フランス革命が旗印とした「自由・平等・博愛」 の 「博愛」 の精神だと、私は思う。
そのことを、江田三郎の書き残した書物から おぼろげながら知覚できたのである。