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銀漢よ とまれ

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2月3日 日曜日、朝から牡丹雪が舞っていたのが 午後になって 小雨となった。
このところの冷え込みから考えると、暖かめの節分である。
ことしも、家内と吉田神社へ参った。
毎年のことながら、吉田界隈は この時期 雑多の混雑となる。
視覚や聴覚だけでなく、食べ物のいろんな臭いが 鼻から喧騒を沸き立たせる。
京大の時計台を デジカメで記念撮影する アジア系観光客も、多く見かける。

あれから、40年の歳月が経つ。



昭和44年1月、京大正門が バリケードで封鎖される 直前のことだった。
その日の朝、わたしは、わたしの心情を理解してくれる友人二人とともに、B4二つ折りのビラを 登校する学生や職員に配るべく、正門に立った。

友人一人が 西門に、もう一人の友人が 北門に、ビラの束を携えて 立ってくれた。
その日 学生部が全共闘(主に学生寮の学生)の手で封鎖されるということは、その朝の時点で わたしは知らなかった。

ビラは、ただただ 非暴力を訴えたくて、その半月ほど前に毎日新聞に掲載された 『暴力は 結局 人間疎外からの脱出にはならない』 という趣旨の社説の抜粋を添え、わたしの非暴力への思いを、
一京大生より 全京大の学生諸君へ」 と題して 短く綴った内容のものであった。

たかが 一ノンポリ学生だったわたしが、どうしてこんな行動にでたのか。

ガンジーの非暴力主義に 深い感動と共鳴を抱いていたし、その前年から続いていた 日大紛争や 東大紛争の暴力沙汰ニュース、また 革マル派が 『総括』 と称して奥田京大総長(当時)をつるし上げている現場を目の当たりにして、暴力に対する強い怒りを抱いていたのは事実である。

心の底には、教養部時代 べ平連へ共感しながらも それに組し得ない先入観や 政治に巻き込まれたくない意識が 勝って 反戦運動に傍観者であった自分への苛立ちみたいなものが渦巻いていたことも、事実である。

このタイムリーなビラ配りは、全共闘が当時目の敵にしていた民青(日本民主青年同盟、共産党の青年部) の仕業とみなされたらしい。

そのころ わたしは、神楽岡に下宿していた。
吉田山の東麓、宗忠神社のなだらかな石段を降りると、神楽岡に出る。
左手に吉田山荘があり、その向かい、真如堂へ続く道の角家、杉浦さん宅の二階の南側の部屋を お借りしていた。

先日、家内の友人の篠塚瑞穂さんの父上で 京舞篠塚流を中興された 篠塚梅扇さんの遺稿集を開いていたら、「時計台の見える道」 と題する 昭和43年頃の随筆に目がとまった。
家内と吉田神社の鳥居付近を歩きながら、今は写真館になっているあたりがナカニシヤという本屋さんで、その左の道を少し行ったところに 美留軒があって・・・と話していた、その美留軒の名を、随筆 「時計台の見える道」 のなかに見つけたからだ。
あのころの学生なら、誰もが知っている懐かしい名前、美留軒。

随筆から察するに、梅扇さんは このあたりにお住まいだったらしく、ここから吉田山を越えて 宗忠神社を抜けて神楽岡を通り、吉田の神徒墓地を横に見て 商店街の本通りから ご自宅へ帰られる というコースが、馴染みの散歩道だったようである。

ひょっとしたら、通学道だった 吉田山越えの道か あるいは宗忠神社のなだらかな石段で、学生だったわたしは 梅扇さんとすれ違っていたかもしれない。
面識もないのに、そんな空想に浸りながら この随筆を読んだ。



ビラを配布した 数日後のことである。

薄暗くなりかけたころ、下宿先の杉浦さん宅へ 一人の青年がわたしを尋ねてきた。青白い 目鼻立ちのはっきりした顔の、わたしくらいの背格好の青年だった。わたしより 2,3歳年下のようだった。

降りて行ったわたしに、少し話がある そう言って、真如堂のほうへ歩き出した。わたしは なんとなく危険を感じたが、のこのこと 彼の後をついていった。
結果的に、この能天気かげんが 幸いしたのかもしれない。

真如堂の本堂の前にある 灯篭跡の礎石のところまで、まったくの無言であった。灯篭跡の礎石の上で立ち止まった彼は、すっとこちらを向いて こう言った

「これ以上 深入りしないことだ」 と。

3メートルほど離れていただろうか、少し見上げる恰好で見る彼の後ろ 夕闇の濃くなった空に半月が上っていたのを、今でも鮮明に覚えている。
運命というものは、紙一重だと つくづく思う。
あの時、危険を過度に感じて 逃げ出していたりしていれば、彼は私を 民青に関わりありと 判断したに違いない。

下宿に帰った私は、ことの重大さを思い知って 情けなくも 震えた。寒さからもあったろうが、恐怖で体の震えが止まらないという経験は、初めてだった。
まず、わが身に降りかかるかもしれない危害に、震えた。少し経って、わたしの心情に共鳴して ビラを配ってくれた友人へ及ぶかもしれない危害に、震えた。
震えがやっと治まって、情けなさが どっと襲った。
怯える自分が 許せなかった。


その後のわたしは、なにごともなかったように 修士論文のための実験に向かっていた。
日大闘争のリーダー秋田明大が 同志社大学の学生会館へ来るというので、研究室の学生らが こぞって同志社へ向ったときも、わたしは 研究室にじっとしていた。
構内立て籠もりという事態に至って、友人が差し入れてくれたチキンラーメンを 研究室のみんなと幾日もすすっていたが、団交現場には行かなかった。

その年の9月、時計台は全共闘に占拠され、機動隊が学内に乱入して 大学の自治は、もろくも崩れ去った。
時代に翻弄される大学の姿を目の当たりに見ても、心は動かなかった。
自分の非暴力に対する思いなど この程度のものでしかなかった との意識が、わたしを なにごとにも無感動にしてしまっていたのだろう。

真如堂の石灯篭跡の礎石に立った 青白い彼の顔、その背後の夕空の半月、校内立て籠もりのあいだ中、わたしの脳裏から 消えなかった。


よど号ハイジャック事件のときも 浅間山荘事件のときも、新聞などで報道される関係者の顔写真のなかに 彼の顔がないかと、わたしは 目を皿にして探していた。
見つからなくて、ほっとした。
もう この時点では、彼に対する恐怖心は かけらもなく、むしろ 一種の秘密的な親しみすら 覚えていた。

杉浦さん宅から真如堂本堂前の灯篭跡礎石までのあいだで、彼がわたしにした心の変化、疑いから 理解しようとする少しの努力、咎めから 助けようとする少しの思いやり、それらをみなひっくるめて 引出しの奥の奥にしまっておきたいような、感謝みたいな気持ちでもあった。



あれから 長いときが経つ。

「自分は何をしたか」 を問うて、自ら命を絶ったものもいる。
日大闘争のリーダーだった秋田明大は、いま 郷里の広島県で自動車修理工場を経営していると聞く。
東大闘争のリーダーだった山本義隆は、予備校教師として 受験生に物理学の本質を教える傍ら、科学史の研究に没頭して 大佛次郎賞をとったとも聞く。

あのとき あの時代に翻弄されて 右往左往した ほとんどの学生は、なにごともなかったように いまを生きているに違いない。

なぜ あのとき 同じ日本の青年同士なのに、全共闘と民青は あれほどまでに 憎みあわねばならなかったのか。
全共闘同士が、どうして 殺しあうまでに いがみ合わねばならなかったのか。

理解して欲しい、分かり合いたい、うなずいて欲しい、うちとけたい、共感してもらいたい、納得したい、そう、わたしたちは みな 本当は つながっていたいのだ。
あのときも、わたしたちは みな そう思っていたのだ。

自分が自分の心に犯した罪は、自分が許さない限り いつまで経っても 時効は成立しない、そう思い込んで これまできた。
しかし 40年という歳月は、醜いことも 卑怯なことも 妬ましいことも ヒーローも 落ちこぼれも、すべてを呑み込んで 忘れ去り、すべてを許して 想いでという印香に凝縮してしまう。

こうやって 想い出語りを書き連ねていること自体、もう すべてを時効として許している証しではないか。


持参した古いお札を お山に収め、吉田神社の新しいお札をいただいて 東一条に降りてきた。
冬空に立つ京大の時計台を、正門に佇んで じっと見た。
先を行く家内が、立ち止まって わたしを待ってくれている。

義母がこよなく愛した句、家内もわたしも 大好きな句、義父が京都大学退官時に詠んだ句がある。
義父の青春時代から退官にいたるまでの 45年以上もの半生を、この一句に込めたのであろう。


銀漢や とまれ吉田は なつかしき