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春になったら苺を摘みに

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いまや 書店の店頭に並ぶ新刊書の半分以上は、女流作家の手になるもののようである。
女流作家などというと、叱られるどころか 完全にバカにされそうだ。

いまや 芥川賞も 直木賞も、“女流作家” だし、そもそも 女流作家などという表現は、女性蔑視的なにおいがする。
だいたい 女流作家ということば自体、もう死語に近い。

ところで、わたしは 女性の書いた小説や随筆が 苦手だ。
男の視点と女の視点の違いからくる違和感が、女流作家に対する苦手意識を生んでいるのであろう。

例外もある。
梨木香歩の作品は まだ、『家守綺譚』 と 『春になったら苺を摘みに』 の二冊しか読んでいない。
『家守綺譚』 は、目次に花や実のなる木がずらりと並んでいるので 読んでみたくなった。
花にまつわる随筆風の作品かと、最初は 軽い気持ちで流していた。
ところが である。
この作家は きっと夏目漱石が好きに違いない、語り口が 漱石風で、それでいて ユニセックス的な やさしさが 随所に感じられる。

時代も どうも漱石が生きたころで、場所が 京都の東 山科の疎水あたり という設定が、否が応でも ぐいぐいと話のなかに わたしを引き込んでいった。
こと細かく内容を紹介するつもりはないが、書名から受けるような 衒いを狙った作品ではない。
主人公の綿貫征四郎という 駆け出しの物書きが遭遇する奇異な出来事を通して、作者の信念のあるやさしさが ひしひしと伝わってくるのだ。
あっ、この作者なら わたしと気持ちが通い合えそうだ、そんな親しみから ためらわずに、『春になったら苺を摘みに』へ移っていった。

正直なところ、最初 帰国子女の海外体験談か そこらくらいしか 期待していなかった。
ところがなんの、これは 凄い作品である。
梨木香歩という人間そのものが、凄いのであろう。

凄い との表現は いかにも稚拙だが、“彼女は凄い” と思う。
単に 頭が良さそう とか、文章が鋭い とか、そんな表層だけじゃなく、彼女自身のビリーフという表現を拝借すれば、わたしは “彼女のビリーフ” に惚れてしまった。

留学先の下宿の女主人「ウェスト夫人」も、彼女の薫陶を受けた著者・梨木香歩も、ほんとうの意味での “グローバル” なものの見方のできる人に違いない。
ウェスト夫人が生活の端々で示す 『理解できないが、受け容れる』 という生き方が 著者にも息づいていることが、このエッセイのいたるところに表れている。

「トロントのリス」のところで、「レインマン」のダスティン・ホフマンが持つ障碍と同じような ハンディキャップを負うジョンに対して、著者はこう言う。

『 人と人とが本当に理解し合うなんてことはないんじゃないかな、まあ、それでも一緒にコーヒーは飲めるわけだし』 と。

「子ども部屋」のところで、著者は ヨークシャーの湖水地方をトレッキングし、折からの雨で増水した湖から流れ出る川を 石伝いにさかのぼった。
歩きながら考える。

『 相反するベクトルを、互いの力を損なわないような形で 一人の人間の中に内在させることは 可能なのだろうか。 その人間の内部を引き裂くことなく。豊かな調和を保つことは。』と。

  …裸足の足を流れに取られないように岩の上においていく。岩の上を趨る水流はさほど
  深くはないが先日からの雨のせいで、激しく峻烈だ。
  平らな部分より少し傾斜のあるごつごつしている場所の方が足を安定させ易い。
  何か方法があるのだろう。
  それは歩行の際、着地点を瞬時に按配するような、そういう何かちょっとした無意識の
  筋肉の操作に匹敵するコツのようなものだろう。
  二つ以上の相反する方向性を保つということは、案外一人の存在をきちんと安定させていくには
  有効な方法かもしれなかった。
  コツさえ見いだせば。…



梨木香歩という作家を、もっと知りたい。
よし、つぎは 『西の魔女が死んだ』を読もう。9月には、この映画も 上映されるらしい。