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ウィニー事件と法の裁きのむずかしさ

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12月13日付けの各新聞夕刊に 「ウィニー開発者 有罪」との見出しで報道された記事から、思うところを述べたい。

ファイル交換ソフト 「ウィニー」を開発・公開し、ゲームや映画ソフトの違法コピーを容易にしたとして、著作権法違反ほう助の罪に問われた元東大助手に対して、京都地裁は 「社会に生じる弊害を十分知りながら、自己の欲するままウィニーを公開・提供しており、独善的で無責任との非難は免れない」と認定し、被告側の無罪主張を退け、罰金150万円(求刑懲役1年)の有罪判決を言い渡した、というものである。

私はウィニーを利用したこともないし、ウィニーの何たるかさえ良く理解していない。
したがって、正しい判断や意見を述べる資格はない。
ただ職業柄、新しいものを創造しようとの意欲に燃えた技術者の心情を、いささなりとも理解することはできる。
すべての技術者が純粋に技術のみを追求しているとは言いがたい。
彼らに名誉欲、金銭欲などもろもろの俗世間的欲望が全くないとは言えないだろう。

しかし、新しい技術を生み出したものは、それを悪用した者の責任まで負わなければならない、とする 京都地裁の判断には承服できないものが残る。

話が飛躍しすぎるが、アインシュタインにしろ、湯川秀樹にしろ、核分裂の破壊力の恐ろしさは 知っていたはずである。
だからといって、広島や長崎に落とされた原爆の責任を、彼らに求めることができるのか。

裁判で最も重要視されるのは、「先例」。それも最高裁の先例だといわれる。
裁きを万能でない人が裁く限り、絶対に正しい判断などありえないと思う。だから、先例を重視する と言うより、先例に逃げるのであろう。
ところが、新しい技術には先例がないのが当然で、これを人が裁くのはむずかしい。

特許の問題がある。
特許庁の役人が申請された特許願いを特許として認定する一番の根拠は、やはり 「新しさ」であろう。
その出願に特許性があるかを調べるために、過去に認められた特許だけではなく、審査未請求の出願も含めた膨大なデータを調べ上げなければならない。
この基本的な調査すらなされていないのでは と思わせるような、なんでこんな出願が特許になるのか と悩まされる事例もある。
意義申し立てという道が設けられているが、係争は泥沼化するのが落ちである。

私は、特許制度というものに本来的に疑問をもっている。
欲ばり同士の産物だと思っている。
いいことはみんなが使えばいいじゃないですか。
今回のウィニー事件で認識したのだが、ソフトウェアの開発には、無料で公開して多くの人に利用してもらい、意見を寄せてもらって改良する手法が一般的だという。特許制度と全くさかさまの思考である。
なんてすばらしい手法であろう。
京都地裁の裁定は、この 技術者にとって最も好ましい、且つ良心的な手法を封じてしまうことにならないか。
刑事裁判だけではなく、いや、刑事でないからなおさら、このウィニー問題は 裁判のむずかしさを思い知らされる事件である。