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サイゴンの衝撃

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ベトナム戦争、それは 40年近く経ったいまも、解けなかった算数問題のように、青春時代のシコリとして 私の心に宿ってきた。

深く関わったわけではない。
それどころか、知らん顔で通りすぎた 大ニュースだった。

それにもかかわらず、私の体内に 何十年も巣くっている宿便に対峠するような、人には恥ずかしくて打ち明けることもできない問題として、一度は 自分なりの落とし前をつけなければならないと、ずーっと思い続けてきた。

このたび、大阪国際経済振興センターの主催する 「ホーチミン市ビジネスチャンス商談ミッション」 に参加する機会を得て、ベトナムを尋ねることができた。




上の写真は、ホーチミン市内を移動するマイクロバスの後方窓から撮った 夕方の市内の一風景である。

15年前、中国・上海を訪れた折、これと同じような風景に出会った。
あの時の上海は、バイクの代わりに 自転車ではあったが。

50年前の日本にも、同じような風景があった。

私たちの年代のものは、アジアの国々の今に 自分たちの原風景を見つけて、底しれない懐かしさを覚える。
しかし そこには、通りすがりの旅人が陥りがちな 自分勝手な思い込みが 潜んでいるものである。

ベトナムは いま、激変の過中にある。
それを、たった4日間の それも ホーチミン市とその周辺だけを垣間見ただけで、しかも 「激変」 以前のベトナムを 何も知らないのに、そう実感したのだ。

自分なりの落とし前など、どこぞへと吹っ飛んでしまう 衝撃。




上の写真は、サウス・サイゴン、ホーチミン旧市街から南へ7~8Kmのところ、数年前まで マングローブで覆われていた地区で、フーミンフンと呼ばれる いまベトナム人憧れの超近代的都市である。

国際コンペで 丹下健三設計事務所とアメリカの都市計画会社2社とが、開発総エリア 3,300ヘクタールのマスタープランをプランニングしたという。
ここ数年で 新空港と新幹線とで直結され、外国人が安全に生活できる 新未来都市が出現するのだそうだ。

望むらくは、外国資本のみで これが実現するのではなく、ベトナムの真の力が発揮された都市であってほしい。
いや、 心配せずとも 近い将来 そうなるに違いない。

これら二枚の写真は、どちらも ベトナムの現実である。
そこには、ついこの間 戦争で深く傷付いた影は、旅人の目には 見つけにくい。
ベトナムを訪れる他国人の誰もが、そして おそらく ベトナム人の誰もが、これからどんどん発展するベトナムを 信じて疑わない。

14歳から25歳の若者が 人口の4分の1以上を占める いまのベトナムは、前しか向いていないのだ。
ちょうど、50年前の私たちが、膨張する日本しか 見なかったように。



商談の合間を縫って、ホーチミン市から北西70Kmにある クチトンネルを尋ねた。
ベトナム戦争中、米軍を苦しめたゲリラの基地だった場所だ。
出国前から、ここだけは 見ておきたかった。

クチトンネルを案内するベトナム人も 案内される私たちも、戦争は遠い 「過去」 のできごとのように、観光化された 戦争の傷跡を 見て回った。


長い間 巣くってきた わたしの 「ベトナム戦争」 は、この旅で 終りを告げたかに思われる。
ベトナム戦争の英雄・ホーチミンの名をとったホーチミン市も、いまや かつての 「サイゴン」の名を おおっぴらに使いだしている。

戦争を知らない若者であふれるベトナム自身、アメリカ戦争(ベトナム人は 「ベトナム戦争」 とは言わない)は、名実ともに すでに過去のものとなっているかにみえる。

しかし、ほんとうは そうではないだろう。

戦後60年以上経った日本ですら、いまだに あの戦争の傷跡を引きすっている。
幸いといえるかどうか、あの戦争で 日本兵はベトナムで禍根を残す暇がなかった。
だからかも知れないが、その後の莫大な日本のODAのお陰もあって、ベトナムでは 反日感情を感じない。

対戦相手だったアメリカは、ベトナム戦争をいまも重く引きずっている。
ベトナム戦争に参加した韓国の元兵士も、いまだ悪夢に悩まされているとの報道をみた。

もっと理不尽なのは、この 私自身のベトナム戦争であった。

私自身の 人には恥ずかしくて言えないようなベトナム戦争は、もう これで終りにしたい。
そして、ベトナムが、経済発展では少し先をゆく日本などの轍を踏まないよう、ベトナム人自身の英知で以って、水俣病やイタイイタイ病のような公害過程を経ることなく、また マングローブの自然破壊などに 細心の思いやりを注ぎつつ、ほんとうの意味での豊かな国になっていくことを、願わずにはいられない。