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西の魔女が死んだ

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ベトナム・ホーチミンへ発つため、「はるか」 で関空へ向かう途中です。
はるか車内で、梨木香歩著 「西の魔女が死んだ」を 読み始めています。

この小説の主人公 “まい” は 梨木香歩自身ではないか、そう思うことが 作者の思うつぼなのでしょう。
たぶん クォーターである作者は、顔写真も 詳しい経歴も明かしません。

作者の思うつぼにはまることにして、主人公 まいから 彼女を仕立てて 感情移入を図ることにします。

生きた時代や性別を超えて、彼女と私は 似たような生い立ちや性格を有しているようです。
おばあちゃんっ子、扱いにくい子、生きにくいタイプの子、私もそうでした。
なによりも、彼女が感じ 考えるもろもろのことがらに、大きくうなずけるのです。



いじめに遭って 登校拒否生徒となった まいは、初夏のひと月あまりを 西の魔女こと おばあちゃんの家で 過ごすことになります。
まいを襲っている悪魔たちを退治するための、魔女修行のはじまりです。

おばあちゃんは どうして日本に来たの』 という まいの質問に、英国人である西の魔女のおばあちゃんは こう 答えます。

明治時代の始まりの頃、私のおじいさんが 日本を旅行したのです。 そして 日本人の礼儀正しさや優しさ、毅然としたところ、正直さに 大変感銘を受けて、英国に帰りました。
わたしは、小さいころから 祖父に日本のことばかり聞かされて育ちましたから、まるで 未来の恋人を思うように、日本のことを思うようになったのです。




私も、そういう日本人が好きです。そして、そういう日本人を育んだ この日本という土地が 大好きです。


「はるか」 は、南大阪の人家を縫って 走ります。
線路まぢかまで 屋根が迫っているところも あります。二階で洗濯物を干しているおばあさんの、疲れた ちょっとさびしそうな表情まで 車窓から読み取れるのです。


「西の魔女が死んだ」 の前に、同じ梨木香歩の作品 「りかさん」 を読みました。
題名から、女の子が読むようなお話しなのかな と思っていましたが、いえいえ、人間の心を映す鏡である 人形を通して、私たち人間の弱さ 悲しさ 素晴らしさを教えてくれる、極めてすぐれた人形物語です。

孫の陸玖が、義母の残した 手作りの市松人形を 怖がります。
かわいい顔をした童人形なのですが、陸玖は この人形が宿している精気のようなものを感じて 怖がるのに違いありません。

私も、小さい頃 人形が怖かった。
男の子が人形ごときを怖がるなど 口が裂けても言えないし、また それを悟られることのほうが 怖かったのでしょう。
祖母が大切にしていた桐塑人形を、縁側から庭の踏み石に投げつけて 粉々に壊してしまったのです。
祖母は、わたしの気持ちなど お見通しでした。
叱りもせず、粉々になった桐塑人形の破片を 無言で拾い集める祖母の 溜息のようなつぶやきを、忘れることはできません。

『かわいそうに・・・』



ホーチミン・タンソンニャット空港に降り立つと、熱気が体にまとわりつきます。
ここは真夏です。

空港から市内へ向かうマイクロバスの車窓から 見える光景、バイクまたバイク。
いまや ベトナム名物といわれる 「バイクの洪水」 は、不思議なほど美しく 一幅の絵のようです。
どうして接触事故もなく こうもうまく流れるのだろう、これが、わたしのベトナム最初の印象です。

バイクの川の向こうに、淡紅色の南国らしい花が咲いています。
プルメリアの花。
なぜか これが、バイクの洪水に似合っていました。


西の魔女のおばあさんの言葉が よみがえってきます。

人は死んだらどうなるの』 という まいの質問に答えて、こう言うのです。

おばあちゃんは、人には魂ってものがあると思っています。人は身体と魂が合わさってできています。
魂がどこからやって来たのか、おばあちゃんにもよく分かりません。
ただ、身体は生まれてから死ぬまでのお付き合いですけれど、魂のほうはもっと長い旅を続けなければなりません。
赤ちゃんとして生まれた新品の身体に宿る、ずっと以前から魂はあり、歳をとって 使い古した身体から離れた後も、まだ魂は旅を続けなくてはなりません。
死ぬ、ということはずっと身体に縛られていた魂が、身体から離れて自由になることだと、おばあちゃんは思っています。
きっと どんなにか楽になれてうれしいんじゃないかしら。



円錐形の編み笠・ノンラーを被った女性が、土産物を天稟棒にいっぱい担いで 寄ってきます。
ベトナム語は さっぱり判りません。
でも、彼女は 日本人と同じ顔立ちです。
人懐っこい目で、粘り強く土産物を売ってきます。

ベトナムの赤ちゃんのお尻にも、蒙古斑があるそうです。
やっぱり ベトナム人も日本人も同じモンゴロイドなのです。



西の魔女のおばあちゃんの庭で飼っていた鶏が 狐かなにかに襲われて 無残な死に方をした夜、恐怖で眠れない まいは、おばあちゃんの寝床にもぐりこんで バラバラになった鶏のことを思って こう 責めるように問いかけます。

もしああいう目に遭うとしても、身体をもつ必要があるの

おばあちゃんは、こう 答えます。

あの鶏にはあの鶏の事情があったのでしょう。魂は身体をもつことによってしかものごとを体験できないし 体験によってしか、魂は成長できないんですよ。
ですから、この世に生を受けるっていうのは魂にとっては願ってもないビッグチャンスというわけです。
成長の機会が与えられたわけですから


成長なんて・・・しなくったっていいじゃない

まいの反論に、おばあちゃんは ゆっくりと こう続けます。

ほんとうにそうですね。 でも、それが魂の本質なんですから仕方がないのです。
春になったら種から芽が出るように、それが光に向かって伸びていくように、魂は成長したがっているのです』

それに、身体があると楽しいこともいっぱいありますよ。
まいはこのラベンダーと陽の光の匂いのするシーツにくるまったとき、幸せだとは思いませんか?
寒いさなかの陽だまりでひなたぼっこしたり、暑い夏に木陰で涼しい風を感じるときに 幸せだと思いませんか ?
鉄棒で初めて逆上がりできたとき、自分の身体が思うように動かせた喜びを感じませんでしたか?



枕が替わると 寝つきが悪いのは、昔から変わりません。
ホテルのベッドはちょうどいい硬さなのですが、枕がふわふわ過ぎて どうも合いません。

それに、昼間見学したサウス・サイゴンの強烈な印象から、一体自分は ここベトナムに何をしに来たのか 分からなくなってきました。
戦禍に傷付いたベトナムを 探しに来たとでもいうのか。
以前のサイゴンを知りもしないのに 消えゆくものを一時に見て ショックを受けているのか。

眠れない夜は、ろくなことを考えません。
こんなときは、本の世界に逃げ込むのが 一番です。



西の魔女が死んだという知らせに、まいは お母さんの運転する小さな車で 駆けつけます。
“最後の3ページ、涙があふれて止まりません” という 文庫本帯のキャッチフレーズは、ほんとうでした。

あの懐かしいヒメワスレナグサの咲く台所ドアの間、二枚のドアに挟まれた小さいサンルームのような空間の 汚れたガラスに、小さい子がよくやるように 指でなぞった跡があったのです。

西の魔女の伝言が。

まいを怖がらせない方法を選んで、本当に魂が身体から離れましたよって、証拠を見せるだけにしましょうね、と言ってくれた その約束の伝言が。


ニシノマジョ カラ ヒガシノマジョヘ オバアチャン ノ タマシイ、ダッシュツ、ダイセイコウ



ベトナムという国、ベトナムの人たちや このサイゴンの街の匂いと、何らかの形で つながっていたい。
遠いむかしに忘れてきた 自分にとって何か大切だったものが、この街に 感じられるのです。
単なる通りすがりの旅人の感傷ではない 何かが。

「西の魔女が死んだ」 を このサイゴンの地で読んだということは、このことを いっそう際立たせて感じることができたのではないか、そんな 理に当たらない思考の中を 漂っています。