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お金を<冗談>にしないために

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お金を<冗談>にしないために。
このタイトルは、青木秀和著 『「お金」崩壊』 (集英社新書)の 第四章のタイトルを そのままいただきました。
お金のことを話題にしないで済むのなら 避けて通りたい、それが 今までこの欄に投稿する姿勢みたいに思っていましたが、この本を読んで 考えが変わりました。

お金は あまり品のいいものではない、そういう思いは これまでもありました。
守銭奴という言葉からは もっとも遠くにいたい との思いが、本音でしょう。
でも、学校で習ったように、お金には 「交換手段」 「価値の尺度」 「価値の貯蔵」 という 三つの大切な 生活する上での機能があります。

「1円を笑うものは 1円に泣く」 「お金のないのは 首がないのと同じ」、これらは いやでも事実です。
それほど、お金は大切で 切実なものです。

だから 冗談でごまかすことも、ときには必要だったのです。
ところが、こういう いやいやながらも事実として認めてきたお金の価値が、ここへ来て おかしくなっています。


だいぶ前になりますが、落語家・立川談志のテレビドキュメンタリーで、談志が こう怒っていたのを思い出します。
汗水流してやっと稼いだ1万円と、チョコチョコっとパソコンいじってはじき出した1万円と、ちゃんと区別してもらわなくっちゃあ やってられねえよ

物語 『モモ』 を著した ミヒャエル・エンデは、こう言っています。
問題の根源は お金にある」 と。
そして こう続けるのです。
パン屋でパンを買う購入代金としてのお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金は、二つの異なる種類のお金であることを 認識しなければいけない」。

この エンデの言葉と、談志の嘆きは、実は 同じことを指摘しているのです。



48年前の中学の修学旅行には、東京見物が含まれていました。
ちょうど60年安保のデモで、国会議事堂付近は 見物どころではありませんでした。
観光バスのガイドさんが、身動きの取れない緊張した状況を クイズで和らげてくれました。

このバスの中に 180円で買えるものがあります。それは何でしょうか。

1ドル360円の固定相場時代、答えは 「ハンドル」 ですが、このちょっと臭いクイズが、そのときの状況とともに いまでも鮮やかに思い出すのです。

1ドルで1グラムの金と交換できるのだと、中学の社会科で習いました。
ドルってすごいんだなあと、金1グラムがいかほどのものかも解らないままに そう思ったものです。

この アメリカが保証していた<金>と通貨との最終的リンクは、アメリカ政府の一方的通告、いわゆる 「ニクソン・ショック」 で、あっけなく崩壊します。
ドルの “金兌換停止”です。
わたしが社会人になって間もなくの、1971年のことでした。
実は、このときからすでに、アメリカ中心の世界秩序(パックス・アメリカーナ)は、崩壊に向かっていたのです。

このころのわたしには、この 「ニクソン・ショック」 の持つ重大な意味を理解することは できませんでした。
入社時の1970年には ちやほやされながら社会人になった矢先に、ニクソン・ショックの2年後に勃発した 第四次中東紛争に端を発する 「オイル・ショック」 で、街にはトイレットペーパーを買い求める 長蛇の列を報道するテレビニュースが連夜流れるという混乱が、日本中を駆け巡ります。
こっちの方が 一大関心事でした。

とにかくしっかりしたものを作っていたら 黙っていても仕事がどんどん入ってくる状態に慣らされていた 社会人新人が、急に仕事を取ってくる営業に携わることになったのですから。

オイル・ショックの年、世界の通貨は 完全に変動相場制に移行していました。
ここに至って、世界の通貨は<金>とのつながりをついに切断され、「完全なる不換紙幣」となります。
そして、それがアメリカの罠だったのか、気がつけば 世界は あたかも「石油・ドル本位制」に すり替わっていたのです。


一般的に、金兌換が停止され 管理通貨制に移行したことは、通貨の発行根拠が 資産<金>から 債務<国債>に完全に置き換わったことを意味します。
金・ドル本位制の持っていた 「足かせ」、 つまり 通貨に「量」 という最小限の物理的限界を課していた その重しを取り去ったということは、金融システムの中枢に据わる者たちが、「欲望を お金の量に合わせる」 経済を脱し、逆に 「欲望に、お金の量を合わせる」 ことができる経済を 手に入れたことを意味するのです。

こうして、お金がお金を生むシステムがまかり通り、日本の国債は 1秒間に約30万円もの 猛スピードで増え続け、世界の金融資産総額は 秒速2440万円で膨張し続けているのです。(1995年から2005年の 10年間計算値)

お金が増えるということは、誰かが富を得ているという裏側で 誰かがその負債を負わされていることを 忘れてはなりません。

こんな負債を、実体経済で稼ぎ出せるはずがありません。
実体経済は、自然資本から資源を借り受けて それを人間の英知で有用性あるものに変え、その有用価値とお金を交換して社会経済を営む一方で、自然から借り受けた限りある資源から 人間に都合のよい商品を作ることによって生じた廃棄物を自然に還して、その回復を自然代謝に任せなければなりません。

それには、時という肥やしを要するのです。

いま増え続けるお金のスピードは、その 「時」 に比べ けた違いに速すぎます。
それをごまかそうと もがいているのが、GNP至上主義ではないでしょうか。

コンピュータというハードに裏打ちされたインターネットの功罪は、ずっと後の世で その審判が下されるでしょうが、この一人歩きする亡者 お金の足になっていることは 事実です。



いま、お金の品格が 地に落ちています。
談志のいう 「汗水流して働いて やっと得た」 お金には、立派な値打ちがあるはずです。
なければ、それこそ やってられません。
理由はどうあれ、借金を苦に自殺せざるを得なかった幾多の魂が、それこそ 浮かばれますまい。


青木秀和氏は、その著書 『「お金」崩壊』で こう結んでいます。

お金に健全性と永続性を備えさせるのは、結局は、自然環境と折り合いがついた 健全で持続可能な社会経済が築けるかどうかにかかっている。
お金を 「信用するに足る」 ものにするためには、それ以外に方法はない。
お金を これ以上<冗談>にしてはならない。



遠からず、世界のお金は 「環境」 という足かせを 否が応でも履かせられることでしょう。

ひょっとしたら、炭酸ガス・ユーロ本位制、もっとひょっとしたら、水・円本位制になっているかもしれません。

それでも、何かの不都合は起こるでしょう。
でも、今よりはお金の品位が回復されていることを願わずにはおれません。