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千羽鶴

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またも、とお思いでしょうが、またもです、梨木香歩のエッセイから 引用します。


(広島平和記念公園の十四万羽の千羽鶴が 観光旅行中の心ない学生によって燃やされる という事件に関連して)鶴を折ることは間々あったが、千羽鶴、というものを、私は今まで折ったことがなかった。
独りよがりの押し付けがましさ、のようなにおいが感じられ、何か望みがあるのだったら、もっと具体的な行動をとった方が現実的だと思っていた。



わたしも、そう 思っていました。
でも、神社や病院に千羽鶴が吊るされているのを見るとき、それに込められた「人の念」みたいなものは、ひしひしと感じていました。


ベルリンにまだ壁があった頃、梨木香歩は 東欧を旅していてます。
彼女は、人と人の間に共感の輪が広がっていくための手だてとして、言葉ではなく、草むしりや料理や折鶴のような手作業に希望を見いだしており、外国を旅するときは 必ず折り紙を持っていくようです。

東欧の旅の途中、彼女は 列車の中で、ポーランドからの難民らしき 怯えたような ひどく切羽詰った様子の母子と同席します。


言葉の通じない私にはその不幸を知る術もなかった。
何か力になれないものだろうか。
でもそんな幻想を不遜だと、すぐさま否定をせざるを得ないほど、人間存在としての 彼女らの絶望に近い不安は、そそり立つ岩のように圧倒的だった。
列車の振動音だけが空しく続く。
窓の外は雪に覆われた東欧の大地。
私はバッグから折り紙の束を取り出した。
そしてゆっくりツルを折る。
最初は何事か、とちらちら見ていた子どもたちも、できあがったツルを手渡されると、目を輝かせる。
母親の顔にも疲れた笑顔が浮かぶ。
それから、目的地に着くまで、私はただ黙って延々と折鶴を折り続けた。
色とりどりのそれは、百に近かったと思う。



いままで 女々しいと避けていた折り紙から、このところ毎晩、1、2羽の鶴を折っています。
どんなに思案しても、どんなに言葉を尽くしても、解きほぐせないものがあります。
達しないときがあります。
そんなとき、鶴を折るのです。

祈りと言ってしまえば、ちょっと違う。
でも それに近い。
どうしようもない 何もしてあげれない どうしていいかわからない、そんなことばかりです。

千羽鶴を折りあげるには、毎日1羽ずつとしても、3年はかかります。
千羽鶴を折り上げたからといって、どうなるものでもありません。

でも、何もしないよりは、いい。
何かしていなければ、気が狂いそうなら、そうすればいい。
少しずつ、ゆっくりと。


5センチ角の折り紙から 小さな鶴が折りあげられるとき、ささやかな ほんとにささやかな喜びがあります。
何かが繋がるのです。

それぞれの折り鶴は、ちょっとずつ違います。
どれも同じものは ありません。
首をちょっと曲げすぎると、さびしそうな鶴になります。
首根と尾根を少し開きすぎると、ちょっと横柄な鶴になります。

小さな鶴が 一羽また一羽と増えていくと、何かしら 穏やかな何かが 届くような気がしてきます。


それは、単に可哀想とか気の毒に、というレベルのものではなく、何か全体の変容、別の次元への移行、彼らのために、そして彼らを含む、何かもっと大きい全体性のようなものへ 開かれていくような感覚だった。(「ぐるりのこと」より)


この 18色の千羽鶴用折り紙は、11年前 京大病院へ入院していたとき 地下の売店で買ったものです。
たぶん、あの時も 鶴を折ってみようと思ったのでしょう。
この折り紙の束を、これからは いつも持ち歩くカバンのなかに 入れておきます。

もし、そういう状況に出くわしたなら、わたしも 梨木香歩がやってあげたと同じように、誰かにツルを折ってあげたいと思います。