滅びの美 |
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中島みゆきが歌う 『ボディ・トーク』の歌詞に、
言葉なんて迫力がない 言葉なんて なんて弱いんだろう
と ある。
まったく同じ思いだ。
かといって
僕が差し出せるのは 命だけ 伝われ 伝われ 身体づたいに この心
と嘯くほどの ボディのほとばしりが 湧いてこない。
ただ、 “生”をかろうじて確かめるように 迫力のない言葉を連ねているに過ぎない。
滅びの美、これが このところの一大関心事なのだが、 <滅びの美>と気弱そうにつぶやいても、どこか嘘っぽいし、今のわたしの心中を 正確に言い当てた言葉とも思えない。
死に関心がある、と大言壮語できる年齢でも 成熟度もない。
もし、あの 北海道サロマ湖100kmマラソンを 完走できて、ゴールにぶっ倒れてワーッと叫ぶことができるなら、ひょっとしたら そのクタクタの体の底から
搾り出せる言葉が、今わたしが言いたいことの 一番うまい表現なのだろうな。
ライオンに追われて 必死で逃げ惑うシマウマが、ライオンに捕らわれた瞬間 観念したようにピタッと抵抗を止め、粛々とライオンの餌食になる様を、以前
テレビで見た。
滅びの美。
『自死という生き方』(須原一秀著 双葉社刊) という本を読んでいる。
書いてある内容は深遠で 一読の価値は大いにあると考えるが、自殺とはいわずに 自死と表現するところに、やはり “無理” を感じる。
若い頃から 死というものに対して親しみを抱いてきたわたしだが(それは 多分 「平家物語」の影響が大きいと思う)、自殺は 一種の 「越権行為」であると信じるし、自死を 手放しで肯定できるものではない。
こと死に関しては、神は まことに平等である。
不死という とてつもなく恐ろしい罰も、神は何びとにも与えない。
ならば、老醜を憎み 病苦を恐れるが故に、最後の切り札である 「おのれの死」を 最後の我儘として自由にさせて欲しい と、体と頭が まだ自分のコントロール下にあるあいだに
と。
それは、60歳を過ぎた人間ならば誰しも、口に出さずとも ふっと抱く思いではあろう。
にもかかわらず、宗教や哲学を引き合いに出すまでもなく、 「生を全うする」 生き方が 人間としての務めであるならば、せめて 滅びゆくものに 大げさな光明でなくとも
ささやかな美を 与えてくださっても、神の依古贔屓には なりますまい。
ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ
これは 西行法師の有名な歌だが、わたしは 桜の木の下でなくとも また春ではなくとも、名も知らぬ老大木 願わくば屋久杉の根っこで、さわやかな風につつまれて
眠るように死にたいと思う。
これを 滅びの美などと表現してしまうと、もう わたしの思いから すーっと離れてしまいそうになる。
でも、そう表現するほかない。
現実に戻ろう。
根本的に、死は やはり 「無」である。
わかりやすくいえば、死は 「消えること」。
魂の不滅は、現在ただいまのところのわたしには 信じられない。
死んだら、やはり 仕舞なのである。
作家・山田風太郎が 「死ぬための生き方」(新潮文庫) のなかで このわたしの今の思いを うまく表現している。
いかなる自称大人物が死んでも、地上は小石一つを沈めた大海の如し。
のみならず 「人は死んで三日たてば、三百年前に死んだと同然になる」
そして、こう付け加えている。
それとはまったく別に私は、自分の死よりも、その愛する者たちが十何年、何十年かのちに
死んでゆくことを考えるほうが恐ろしい。
結局、この世は 生きている者たちの世であって、自分の死が恐ろしいのは、残される愛する者たちが 自分の死によって苦しめられること、この一点に尽きる。
とはいうものの、これとて あとに残った者たちは、無ければ無いで 何とかやってゆくに 違いないのだろうが。
これまで 家内には、ことあるごとに 自分よりも一日でもあとで死んでくれと
言い続けてきた。
今は、これまで 千度つらい思いをさせた家内を看取ってから 死にたいと、本気で思っている。
これが、ささやかながら また 迫力に欠ける わたしなりの 滅びの美の 落とし前だと、本気で思っている。
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