YAMADA IRONWORK'S 本文へジャンプ
祇園囃子

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梅雨が明けたのだろうか、真夏の蒸し暑さが 京の街をうだらせている。
京の夏は、祇園祭から始まる。
氏子でないわたしにも、祇園囃子の音には、体の中の何かを掻きたたせ そして すーっと それを鎮める まじない力のようなものを感じる。
ちょっとさびしげだが、とても心地よいのだ。

京には 四季折々に そして 京のあちこちで 人を惹きつける魅力的な祭りや行事があるが、長くこの地に住していても、それらの魅力を あまねく肌で感じて楽しんでいる京都びとは、おそらく ごく僅かであろう。

わたしも その 「その他大勢」のうちの一人だが、あえて三つを挙げるなら、大晦日の八坂神社のおけら参り、鞍馬の火祭り そして 祇園祭(17日の巡行より やはり宵山)を選ぶ。
なかでも 祇園祭には、哀愁とも郷愁とも言いがたい えも言われぬ押えがたい思いが湧いてくる。

早くに売切れてしまう 長刀鉾のちまきを求めて、きのう 街へ出たついでに地下鉄を乗り継いで四条烏丸に上がった。
この くそ暑い日中にもかかわらず、長刀鉾の周りは 人また人。
他の祭りをよく知らなくて 断定は出来ないが、祇園祭ほど 若い男女の群が目立つ祭りは ほかにはないのではなかろうか。
それも、みな美しい。
若い女性の浴衣姿は、この祭りに とても相応しい。


ふっと、ずっとむかしに読んだ小説の一場面を思い出す。
川端康成の晩年の作品 「古都」のなかで、うら覚えだが、宵山で 恋人が迷子になるシーンだ。
携帯電話万能の今の世では 想像もつかない、切ない迷子のシーン。

青春時代に、それも この祇園祭のさなかに、誰もが あのような哀しい恋をするはずもないのだが、祇園囃子に包まれて 人の流れに身を任せていると、あたかも自分がその主人公になったような 必死で恋人を探しているような 錯覚を抱いてしまう。


「フェスティバル」という言葉がかもし出す バガ陽気な祭りとは対極にある、なにか哀しげなこの力は、何なんだろう。
そんな 碌でもないことを考えながら、飛ぶように売れるちまきを買い求めた。

そうか、これなのか。
祇園祭のかもす華やかさ、哀しさ、懐かしさは、このちまきに凝縮されているのだ。
だから、争うように ちまきを買い求めるのだ。

親の その親の そのまた親、ずっとずっと親の時代から、先祖を敬い 災難を畏れ 逝った友を懐かしみ どうか厄をお除けくださいと、ちまきは それぞれの家の玄関に飾られる。

祇園祭の華やかさのうらに込められた祈り、それが 多くの京都びとを この祭りに惹きつける力なのではなかろうか。


祇園囃子の音が、地下道をずっと進んでも いつまでも 耳の奥底に響いていた。