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このごろ思う「生きがいについて」

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思っていても なかなか口に出せないことがある。
例えば、千年紀で話題沸騰の源氏物語である。

人それぞれなのだから、光源氏のような にやけた生きざまは 自分の趣味じゃない と はっきり言ってもいいはずなのだが、源氏物語崇拝者の多いここ京都で そう発言するのは、ちょっと勇気が要る。

勢いで言うのだが、光源氏の生きざまだけでなく、惚れた腫れたのへにゃへにゃ文章自体 わたしの好みではない。



中島義道の 「私の嫌いな10の言葉」(新潮文庫) を読んでいたら、痛快な文章に出会った。


村上春樹の 「ノルウェーの森」という小説を、わたしは むかし 最初の数十ページを読んで ほっぽりだした。
自身たっぷりの登場人物も気に食わないが、内容が非現実的に過ぎる。

しかし、海外でも高い評価を得ている村上春樹文学をけなすのは、観賞力を問われるようで くだらないとは なかなか言いにくい。

それを、中島義道は この作品を 「不快だ」の名言で切り捨てているのだ。

中島義道は わたしより一つ年下の かなりへそ曲がりな哲学者らしいが、彼と、わたしが住友重機時代に知己を得た友人、松並壯氏とが、わたしの頭の中で重なる。
どちらに失礼になるのか 定かでないが、わたしの中では 「へそ曲がり」 は褒め言葉に近いから どちらにも許してもらえるだろう。

ただ一点、両者の書く文章に 『閑話休題』というフレーズが頻出することは はっきりした共通点だ。



最近の芥川賞作家は 女性が多くなり、それ自体に問題があるわけではないが、どうもパッとした作品に出合わない。

芥川賞をもらった作品なのだから どこかにいいところがあるのだろうと、淀む文章に耐えて 苦虫を噛む思いで読み進むのだが、いつまでたっても ああっ!と胸に響く文章に行きつかない。
だいたい 小説なんてものは、読む者に努力を強要すべき代物ではないはずだ。

最近の芥川賞作品には、がっかりさせられることが多い。



このホームページを担当してくれている 水野里香さんが、休み時間の雑談で 「太宰治の 『人間失格』 を読んだが 憂鬱な気分になるだけだった」と 話していた。
まったく同感だ。
ずっと前に わたしも この小説を読んだが、生気を吸い取られるような いやな気分になったのを思い出す。

小説は 読む者に元気や感動や勇気や愉快を与えるものでなければならない! が持論のわたしは、太宰治という作家も 好きになれない。

この太宰治を コテンパーに貶していたのが、三島由紀夫だ。
だいたい森鴎外の墓の前に太宰治の墓があること自体 気に食わぬ、とまで言っている。


たわいない貶し節は ここまでにして、本題に入ります。


青春時代に受けたショッキングな報道映像を三つ挙げよ と言われれば、躊躇なく次の三つを選ぶ。

アポロ宇宙船の月面着陸、浅間山荘事件、そして 三島由紀夫の割腹自殺。

天才と気違いは 紙一重といわれるが、三島由紀夫も まさに その天才だった。

盾の会などのイメージから 彼は右翼の凝り固まりのように思われがちだが、小説 「金閣寺」を著したころは、退廃的ではあるが プロレタリアートの匂いが強かったように わたしは理解している。

川端康成がノーベル文学賞を受けた折、ほんとうなら三島由紀夫が受賞すべきだったところ、彼の左寄りの思想が災いして 日本政府の推薦が得られなかったと、当時まことしやかに噂されていた。
現に、海外 ことにフランスでは 彼の評価はダントツだった。

しょうびんな腺病質の肉体をボディービルで改造し、賞を逃がした訳の思想を180度転換して 独自の右翼思想を構築してまで、彼は 自分を何ものかに変えようとした。

その本心は、自殺願望だったに違いない。
死に場所、死ぬタイミングを捜し求めていたに違いない。

三島由紀夫に関する資料によると、彼は老醜をもっとも嫌っていたらしい。
永井荷風のようになりたくない、が口癖だったという。


天才の悲劇というものだろう。
1970年11月25日、東京市ヶ谷の自衛隊総監部を襲い 事成らず割腹自殺。45歳。


三島事件の報道を、わたしは、社会人1年生として 三人の先輩に連れられて住金和歌山製鉄所に出張していた折、和歌山市内の宿のテレビで見た。

この報道に感化されたように、その夜は 先輩たちの 「生きがい論」で盛り上がった。
新米のわたしは もっぱら傍聴するだけだったが、思い起こすに 三島の割腹自殺に かなりのショックを受けていたらしい。

直属の上司であるM氏が、三島由紀夫の死に方は 世間騒がせだが 理想の死に方だ と論じた。
この発言に 残る二人の先輩が 内容は忘れたが それぞれの持論を披露し また反論して、酒の余勢も駆って 延々と話はつきない。

なかなか終わらない夕食の後片付けのタイミングに窮していた仲居さんの顔が、いまでも はっきり目に浮かぶ。


あの時の報道の重みに比して、わたしには 彼らの話が貧弱に思えた。
「生きがい」と言いつつ、彼らは 結局 夢みたいな死に方しか語っていなかった。
三島由紀夫の死に方を美化する発言には 猛烈に反感を抱いた記憶はあるが、黙って聞いていたわたしも、生きがいについての考え方に関しては、実は似たかよったかだったと思う。

死を遠い遠い先のことのように感じている あるいは 夢みたいな死に方に憧れているうちは、「生きがい」など どうでもいいことなのかもしれない。

ただ、あんなに太宰治の自殺を嫌悪していた三島由紀夫も、結局は人間の犯してはならない越権行為で 自らの命を危めたのか、という 落胆に近い空しさは 痛烈に感じた。

どうして 達磨禅師のように 面壁9年で朽ち果ててくれなかったのか。
これが、三島文学に傾倒しかけていた当時の わたしの思いだった。


三島由紀夫の自殺は、死を通じて 生きることの意味を考える機会を わたしに芽生えさせたことは事実である。

三島の死から2年後、ノーベル賞作家 川端康成も 自殺した。



その後、「生きがいについて」という類の書物を 読み漁った時期があった。
幽霊のように生きた時期である。
そして、そのどれにも グッとくるものを感じないままだった。

10年ほど前、富山県利賀村で催された 「そば祭り」を見に行った。
幽谷の山村ながら、賑やかな催しだった。

そんな祭りの中、なんでマザー・テレサだったのか 彼女が亡くなってすぐの回顧録だったのか、 マザー・テレサのコーナーが設けられていた。
そのコーナーで、マザー・テレサの次のことばに出会った。


「もっとも不幸なことは 貧しいことそれ自体にでなく だれからも必要とされていないと感じる孤独に あるのです」


仕事のこと 家庭のこと 健康のこと・・・すべてに押しつぶされそうな毎日だったあの時、この言葉は 深く身にしみた。
当時は 必要とされていないどころか、もうよしてくれ と言いたいくらい すべてのことが 自分の肩にかかっていた(ように思い込んでいた)。
マザー・テレサのこの言葉とは、まったく無関係の状態であった(と思い込んでいた)。

それなのに、幽谷の山村で見つけたこの言葉から、はらわたがキューっと締め付けられるような 感動を受けたのだ。

あれから10年以上経ついま、改めて このマザー・テレサの言葉に動かされる。
自分が 「だれからも必要とされていないと感じる孤独」 を感じる年齢に達したということではなく (いや、遅かれ早かれ そういうときはやがて来るだろうけれど)、人間みんな寂しい存在なのだという 独り善がりながらの連帯感、だれかの役にたちたい という 自分以外に向かう気持ち、利益とか効率とか納期とか そんなものからは遠い遠い存在の 静かなこころの広がり、マザー・テレサの言葉から そんなふわーっとした思いがこみ上げてくる。

あの マザー・テレサの言葉に利賀村で初めて出会ったときに受けた感動は、この思いを 漠然とながら 求めていたからに違いない。
こういう 「生きがい」を切望していたに違いない。



わたしの大好きな 映画評論家・故 淀川長治は、


「私はみんな嫌いだったの、初め、人が。 でも映画から三つのスローガンを貰いました。
『苦労、来い』 『他人歓迎』 『私は、いまだかって嫌いな人に会ったことがない』。
これを唱えてから、どなたとも仲良くなれるようになりました。」


と教えてくれた。

マザー・テレサの言葉にも 淀川長治の言葉にも 滲み溢れているもの、それは 「人間賛歌」だと思う。

天才・三島由紀夫は、この 「人間賛歌」の素晴らしさを味わうことなく自らの命を絶った かわいそうな人間なのだと 思う。

「生きがいについて」 このごろ思う行き着き先は、「人間賛歌」であるらしい。



最後に、いままで観た数多くの感動の名画のなかから、一つだけ。
“ドライビング Miss デイジー” から。

Missデイジー(ジェシカ・タンディ)は72歳、ユダヤ人で元教師。
ホーク(モーガン・フリーマン)60歳、男やもめの黒人運転手。

やわらかな暖色に包まれた天井の高い部屋で、テーブル越しに彼が差しのべるフォークの先のパイをひと口、含みながら Missデイジーが小さく尋ねる。

「元気なの?」

彼はもうすっかり、愛しげな眼差しで答える。

「何とかやっています」

少し、間をおいて

「何とかやっていくのが、人生ですな」