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市井のパトロンたち

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パトロンとスポンサーは どう違うのだろう。
これをちゃんと理解すれば、昔の日本には わんさといた まちの職人が、なぜ今の世の中には かず少ないのか、が判る、とわたしは考える。

パトロンもスポンサーも 「後援者」と訳されるが、似て非なるものである。
いま 民放テレビでもインターネットでもスポンサーで守っている が、カネを出す裏は、それに見合った あるいは それ以上の商いを狙ってのことであろう。
商業主義丸出しの 「後援者」、それが スポンサーだ。

だから、予算の許す限り 有名タレントを起用したり 評判の高いコマーシャルディレクターに 依頼したりする。
あるいは、ちょっと冒険して 成長確度の高い新人を起用する。
そこには スポンサーの好みは入るだろうが、あくまで目的は 投資効果だ。
安全第一の投資に過ぎない。


パトロンもカネを出す。
しかし、まず 「好み」だ。
好みでもないものに、パトロンはカネを出さない。

もう一点 ダイジなことは、パトロンは 出来上がった 「完成品」にも金を出すが、ほとんどは “いまだ成長過程にあるもの” に対してである。
一種の賭けである。

ちょっとシャレて言えば、スポンサーにはない “粋” が、パトロンには存在するのだ。

パトロンが出すカネは、現金でないといけない。
小切手や まして振込みでは、ありがたみ半減である。
現金が目の前に積まれたときの迫力は、もう 何でもしますーっという気分になってしまうから 恐ろしい。

これで 君の好きなようにやってみたまえ、なんて言われたら、全身全霊 がんばらざるを得ない。


むかし(正確に言えないが、1980年前半のころまで)は、市井にも パトロンが大勢いた。
小金を持っていて 芸術や技に興味をもつ庶民が、自分の眼識を頼りに (というよりもその眼識を確認したいために)、掘り出し物や気に入った職人芸に“清水の舞台から飛び降りる” 勢いで 大枚をはたくのは、珍しいことではなかった。

現に、この私にも、いまだから言えるが たいした技を持っていた訳でないにも関わらず、私の技術力を買って かなりの方々がパトロンになってくれた。
ご贔屓客、顧客となっていただいた方々だ。

わたし側も、怖いもん知らずで 損を覚悟(というよりも損得抜き)で、パトロンの要望に応えようとしたものだ。
お陰で、思い上がりだけの技術力が 飛躍的に高まったと自負している。
結果、借金だけが残った感は ぬぐえないが・・・。


人間は おのれを認めてくれるものに対して 必死で働く、これは 紛れもない真実である。
職人は、自分の成し遂げた作品にほれ込む力だけでは 生きていけない。
パトロンなしでは 生活できない という意味以上に、仕事を遂行する 気持ちの上での 原動力にならない ということである。


コンピューターのプログラマーも、職人とはいえないのか。
極めて個人的な意見だが、わたしは 「コンピューターのプログラマーは 職人ではない」と思っている。
理由は 簡単明瞭だ。

わたしは、コンピューターに 『美』を見いだせないからだ。
美を、ファンタジーと置き換えてもいい。
職人から 美 あるいは ファンタジーを取り去ったら、ただの 「手作り」の人になってしまう。

いまの日本にある余裕のカネは、個人にではなく 企業にある。
それも、ごく一部の大企業。
企業は、スポンサーになれるが、パトロンにはなれない。
なぜなら、領収書を請求するから。

こういう 世知辛い世の中からは、市井のパトロンは生まれにくい。
したがって、いまの日本には 職人は育ちにくい。