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油嫌い

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幼少時に刻まれた衝撃的な情景や体験は、成人となってからの性向に 強い影を落とす。

裏庭の空地に 鶏を飼っていた。
親鶏は 幼いわたしにとって 怖い存在だったが、雛は 恰好の遊び相手であった。

工場に隣接していた裏庭は、工場の資材置場も兼ねていたから 鋼材棚や鋳物野晒し場や 油倉庫や電気室が点在していて、それらが迷路をつくり 子供にとっては いい隠れ場となっていた。

コールタールは、木材の防腐剤としても使われていたし 工場の何かの製造過程にも必要なものであったらしく、かなり大量が鉄板槽に保管されていた。

そのコールタール槽に、わたしが可愛がっていたひよこが 落ちておぼれ死んだ。
かわいそうで せめて土に埋めて墓場を作ってやろうと 水場で洗ってやるのだが、洗っても洗っても あの柔らかな羽毛は戻らなかった。

べっとりと手についたコールタールの黒いテカリが、あの特有の臭いとともに 幼心に 悪魔の象徴のように思えた。


油嫌いの体質は、歳を重ねるほどに 鮮烈になってくる。
水に流せないもの、腐らないもの、土に還らないもの、その代表選手のような油に対する嫌悪感は、病的なほどである。
生理的にだめなのだ。

金属でも、鉄のように 酸化して腐るものには親近感をもてるが、いわゆるステンレスとよばれる金属は 重宝には思うが好きにはなれない。


小学校の理科で、石炭は 大昔の植物の屍骸であり、石油は 大昔の動物の屍骸だと 習った。
石炭の燃える匂いは 何ともないのに、重油の燃える匂いには 拒絶反応を起こしてしまう。

燃える匂いは、そのもののエッセンスだ とも聞く。
これがほんとうなら、自分は植物であったほうがマシだ とまで思う。


現代社会は、石油なしでは 成り立たない。
身の回りをみわたしても、石油製品に囲まれて生活しているようなものだ。
油嫌いなどと言ったら、罰が当たるかもしれない。

ところが、このところの 「第三次石油ショック」で 脱石油が叫ばれだした。
石油離れの予兆である。

石油社会は、行き着くところまで来た と思う。
先祖の屍骸に縋って生きるような生き方は、そろそろ終わりにせねばなるまい。


最近の脱石油動向は、わたしの生理的性癖が まんざら 病的とばかりは言えないことの 証しかも知れない。