円空の善財童子立像 |
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上の写真は、紀伊国屋書店発行の 『円空の彫刻』 から転載したもので、円空の 「自刻像」 と明記されている。
長い間 この像から円空上人を想像し、円空仏を彫りだしている円空の姿を 思い描いていた。
あべのハルカス美術館で4月7日まで 「円空-旅して、彫って、祈って-」展が開催されていたが、最終日近く やっと思い立って阪急電車と地下鉄御堂筋線を乗り継いで
あべのハルカスを訪ねた。
現在ただいまの体調からして、大阪まで行くのは少々勇気が要ったが、天王寺駅を降りてすぐそこだったので すごく助かった。
これほどまでの数の円空仏を一か所で観られること自体、わたしにとって大きな賜物でしかない。
この 「円空展」 では、上の写真の像は 「善財童子立像」 となっていた。
20歳はじめ 円空仏に魅せられたわたしは、円空上人が遍歴した足取りをたどるように、円空仏の痕跡を 日本各地に訪ねまわった。
北海道南西部の 後志(しりべし)地域から始まって、青森県下北半島から秋田県男鹿半島をめぐり、日を改めて 三重県志摩半島に長逗留して 円空の足跡を訪ね歩いた。
ひと夏休みを丸々費やして、濃尾平野から飛騨地方を 憑りつかれたように歩き回った。
円空仏を追い求めて 最後にたどり着いたのは やはり 円空上人の生まれ故郷である岐阜羽島で、木曽川を眺めたのち 歩いて長良川に向かい、その河畔に夕暮れまで佇んでいたのを、懐かしく思い出す。
円空上人は、江戸時代のはじめ、美濃国竹が鼻というところ、現在の岐阜県羽島市上中町に生まれている。
ちょうど 木曽川と長良川に挟まれた、農業のほかに生きる道のなかった、しかも 常に水の災いにさらされた地域だ。
父無し子であったが、母親にかわいがられ、7歳のとき その母を洪水で亡くしてしまう。
あの夕暮れに見た長良川は、予想外にきわめて穏やかであった。
円空は、生涯で12万体の仏像を彫ったといわれている。
発見されているもので、約5500体ほどある。
この目で観たのは、その1割ほどもない。
それでも 画集などで調べて気に入った円空仏は、ほとんど訪ねている。
その中で 実物の円空仏を観ていないのは、上の写真の立像と 円空最後のほとけと言われている 「高賀神社・十一面観音菩薩及び両脇侍立像」 であった。
その両方とも、この展で拝観が実現した。
高賀神社・十一面観音菩薩及び両脇侍立像は、展の最後の部屋に置かれていた。
2mを越す細長い 十一面観音像を中心に、向かって右が 善女竜王像、左が 善財童子像の三体。
これら三体の仏像は、同じ一本の丸太から作られている。
十一面観音像を彫りとった残りの木から、円空の母の姿である善女竜王像と 円空自身の姿である善財童子像を 彫りだしているのだ。
円空さんは、母とともに 観音さまに抱かれて、やっと安寧を得たのである。
善財童子像は、円空上人自身。
だから、財全童子像は 自刻像。
冒頭の疑問は、「高賀神社・十一面観音菩薩及び両脇侍立像」 と展の最後に対面できて、すっきり解けた。
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