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三たび、優しさ について

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新型コロナウィルス騒ぎで、常時では気づかなかった いろんなことが、分かってくる。
その最たるものが、人の心であろう。
この混乱のなかにあっても なお、自分のことを考えるより早く、他者の身になれる人がいる。
わたしには、天使としか思えない人。

梨木果歩のエッセイ集『やがて満ちてくる光の』のなかで、天使としか思えない人、‘天然に優しい’ 友人が描かれている。
著者が高校生のとき、通学バスの定期券を家に忘れて 登校した。
その朝たまたま 学校へ車で送ってもらったので、忘れものに気付かなかったのだ。
学校でそのことに気付いた著者は、帰りのバス代を仲の良かった友人に借りた。
いいよーと、その友人は即座に著者に バス代を貸してくれた。
その十年後、あのとき友人が自分のバス代を著者に貸し、自分自身は二時間近くかけて歩いて帰った ということを、著者は初めて知る。
なぜ そのことを教えてくれなかったの、と責める著者に、「うーん、まあいいか、と思って」と応える友人。

梨木果歩がこの著書で述懐していると同様、若いころ わたしも、「優しいことは弱いことではない」とか、「(意志の)強さに裏打ちされた優しさ」などと、歯の浮くような言葉を友人と戦わせながら、生きる指針作りに懸命だった。
しかし 人生経験の乏しい あの当時のわたしには、いづれも実体の伴わない机上の空論に過ぎず、梨木果歩の ‘天然に優しい’ 友人のような人に憧れ 追い求め続けた。

後期高齢者の仲間入りを目前にしている わたしは、これまで幾多の「優しくて強い」人たちに会ってきた。
求める わたしの心が、そのような人たちにめぐりあう機会を与えてくれたのだと、自負している。
だが しかし、このわたし自身は、いまだに その求める「優しくて強い」人には 成れていない。
そのことを、この非常時のいま、如実に悟らされている。

梨木果歩の言葉を借りるなら、彼ら彼女ら「優しくて強い」人たちは、決してそのことを求めようと努力していたのではない。
ただ、他人の抱えている事情に対するイマジネーションの力が とてつもなく強い人たちなのだ。
考え込むより早く 他人の身になってしまう、そういう瞬発力が、生まれながらに(天然に)備わっている としか思えない。
その瞬発力は あまりにも早すぎて、ときとして彼ら彼女ら自身の利害を圧倒してしまう。
まず自分の保身を第一に考える生物としては、賢い生き方ではないかも知れない。
けれど それでもなお、わたしは、そういう ‘天然に優しい’ 人たちを、無性に好ましく思う。
ないものねだり と、重々承知しながら。

このコロナ騒ぎは、人間のいろんな顔を、暴露させている。