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恥ずかしい思い出

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初めての海外出張先は、オーストラリアのメルボルンであった。
1985年の夏(メルボルンでは冬)のことである。
京阪神商品展示会開催協議会が主催した「メルボルン・エンジニアリング・エキジビジョン」に参加しての 出向であった。

歳のせいだろうか、昔の楽しかった情景を たくさん思い出すことが多くなった。
楽しかった思い出は しかし、細部がぼやけていることが多い。
ところが、イヤな思い出(恥ずかしかった思い出)は、そのシーンの一つ一つを鮮明に思い出すのだ。
恥ずかしかった思い出は、何度も反芻するから かもしれない。

メルボルンでのエキジビジョンを終えて お開きレセプションの席でのことである。
たしか、ウィンザーホテルで開かれた と記憶する。
エキジビジョンで親しくなった メルボルン在住の同世代オーストラリア青年 ロブ君(ファミリーネームは記憶にない)と相席になった。
彼との話が弾んで、話題が太平洋戦争になった。

歴史の好きな自分としては きわめて迂闊な会話であった。
オーストラリアが連合国の一員であったことを、ごっそり失念していたのだ。
「オーストラリアと日本が対戦しなくて良かったね」とか なんとか、そんなことを 彼に向って話しかけた。
彼は、急に目をひきつらせて「デス レイルウェイを 君は知らないのか!」と わたしを詰った。
「デス・・・」は あやふやで、「レイルウェイ」だけは しっかり聞き取れた。
何のことか、そのときは まったく解らなかった。
なぜ 彼が怖い顔に変わったかも、解らなかった。
小学6年のとき 映画『戦場にかける橋』に感動していたにもかかわらず、である。

「デス レイルウェイ」は 「Death Railway(死の鉄道)」のことで、「泰緬鉄道(たいめんてつどう)」を指すことを、のちに知った。
日本軍が1942年6月に建設を始め 43年10月に完成させた タイとビルマを結ぶ約420kmの鉄道で、英領だったインドの北東部を攻撃しようとした「インパール作戦」のために 日本軍の補給路を確保する目的で 建設された鉄道である。
この建設に当たり 日本は、英国、オーストラリア、オランダなどの連合国軍の捕虜約6万人と、東南アジアの約20万人の人々を動員して、いわゆる「泰緬鉄道建設捕虜虐待事件」を起こしている。

その後 忙しさに日々過ごすうち、メルボルンでの恥ずかしい思い出は 記憶の彼方へ追いやられ、26年経った 2011年6月22日の新聞で、泰緬鉄道建設に従事した永瀬隆さんという方の死去を報ずる記事を目にした。
永瀬さんは、英語通訳として陸軍省に入り 太平洋戦争中の1943年にタイに赴き 泰緬鉄道の建設現場で働いた。
そこで 彼は、鉄道建設で犠牲になった捕虜兵や現地人の 痛ましい現場を目の当たりにした。
戦後 倉敷市で英語塾を営みながら 彼は、 過酷な強制労働で犠牲になった連合国軍捕虜やアジア人労働者を悼むため 135回にわたりタイを訪問し、映画『戦場にかける橋』で有名になったクワイ川鉄橋で 元捕虜と旧日本兵との再会を実現させた。
87年には、タイの子どもの教育のために「クワイ川平和財団」を設けている。

この記事を読んだとき わたしは、26年前の あの「恥ずかしい思い出」を蘇らせていた。
消え入りたいような恥ずかしさが、こみ上げてきた。
ロンドン生まれの画家で 戦時中 日本軍の捕虜となって泰緬鉄道建設に携わった ジャック・チョーカーという人の著した『歴史和解と泰緬鉄道』(朝日選書)を買い求め、遅まきながら 「泰緬鉄道建設捕虜虐待事件」の真相の一端を学んだ。
そして ようやく、あのレセプションの席で ロブ君が見せた冷たい態度の意味が、解けた。

高校のとき 歴史を教えてくれた 三宅先生は、高3の三学期のはじめ 大学受験で欠席の目立つ わたしたち生徒に向かって、こう語りかけた。
近代 ことに現代を十分に講義できないことを、君たちには まことに申し訳ないと思っている。 教育要綱が古代から始めることになっており、歴史でいちばん大切な近・現代史を教えるのが 大学受験や就職試験で忙しい この時期に重なることが、残念でならない・・・と。

戦後の教育において わたしたち戦後生まれの生徒たちは、空襲や原爆投下など 日本が被った悲惨な出来事は 学んだが、日本が他国において犯した残虐な事件については 教えてもらった記憶がない。
その多くが、近・現代史に集中している。
高校の三宅先生は、そのことを「残念でならない」と表現されたのではないか。

戦後のドイツの生徒たちが ナチスの犯した罪を教えられたように、戦後の日本の生徒たちが 日本軍の犯した罪を しっかり教えてもらっていたならば、日本の外交 ことに近隣諸国との外交は もっと違った形で進んだのではないだろうか。

自分の自助学びの足りなさを棚に上げて、ロブ君との恥ずかしい思い出から、そんなことを考えたりしている。