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還ってきた梅の花

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鴨川の三条西河畔は むかし、処刑場だった。
いまから426年前の 文禄4年(1595年) 8月2日の昼下がり、豊臣秀次の一族、四人の若君と一人の姫君 そして 側室として秀次に仕えた若く美しい女性たち34名 計39名は、盛夏の熱気去りやらぬ三条河原の刑場に次々と引きだされ、刺され あるいは首打たれて 命を絶たれた。
そのとき 鴨川の清流は、彼らの鮮血によって 朱に染まったという。
この日に先立つ 7月15日、秀次は 高野山青巌寺において自刃させられていたが、その首は京に運ばれ 市中引き廻しのあと、39名の処刑直前に 刑場の土壇の上に 西向きに据え置かれ、一族の処刑を見届ける形を取らされた。
この日、すべての遺骸は 刑場に掘られた大穴に投げ込まれ、跡には 四角錐の大きな塚が築かれた。
その塚の上に 秀次の首を納めた石柩を据え、三条大橋を渡る人々への見せしめとした。

上の記事は、慈舟山瑞泉寺のパンフレットに記載されているものの 抜粋である。
瑞泉寺は、木屋町三条下ルに現存する 秀次公ゆかりの寺で、秀次公とその一族の悲惨な最期に深く同情した 京の豪商・角倉了以翁が、彼らの菩提を永く弔うために建立した。
この寺の本堂は 秀次首塚の位置に建立されており、本堂東側の墓地は 鴨川に面している。

この墓地の南東隅に、以前 当社構内のグリーンベルトに植わっていた紅梅が いま、花を咲かせている。
工場まわりの木々の世話をしてくれていた植木屋さんが、この梅の移植先を連絡してくれたのである。
「いま、あの梅が 花をつけていますよ」 と。

鴨川に面する墓地塀に 大きなガラス窓を設けて、この梅の全姿が眺められるように 配慮してくれている。
移転前の工場まわりの木々のうち、生きながらえた数少ない樹のひとつだ。
梅のそばに、これも生き残りの 花海棠が、寄り添うように植えられている。
どちらも、40年近くにわたり 愛で続けた命である。
再会できて、とてもうれしい。

秀次公ゆかりの寺と 鴨川と 懐かしい紅梅と、ひとかたまりで わたしの大切な名所。
またひとつ、京都に訪ねたい場所ができた。