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そこに工場があるかぎり

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坪田譲治の『風の中の子供』の本の中の情景だったろうか、川のそばの工場の煙突から出る煙の匂いが 河原の草いきれと混ざって 夏の青空に広がってゆく・・・そんな 遠い遠い日の情景を、夢の中で思い出すことがある。
あの工場は 実は、小学校の同級生の実家だったことが、最近になって解けた。
賀茂川の上流、柊野よりまだ奥の川沿いにある 化学工場の煙突だった。

わたしの実家も 工場だったが、街なかだったせいか、あの化学工場のような のどかな雰囲気はなかった。
それでも それなりの趣はあった。
資材置き場と呼んだほうが適切な 鋳物材が散乱した畑、そこは かくれんぼにモッテコイの場所だった。
現に 大根やなすびを育てていたし、チャボも飼っていたし、イチジクの樹が二本あり、夏の終わりには 樹に登って甘い実を木の上で食っていた。
根元に青大将がどくろを巻いていたことがあり、青大将は木登りが上手と聞いていたから 樹の上でおもらししたこともある。

なにより 匂いの記憶は、錆と油の混じりあった 仕事人のにおいだ。
幼いにおいの記憶の中で、もっとも誇らしい匂いだった。


小川洋子著『そこに工場があるかぎり』を読んだ。

なんで小川洋子が こんな本を書くんだ と、書店でこの本を見つけたときは、意外な気分だった。
「あとがき」を読んで、納得した。
彼女も、わたしと同じ記憶の持ち主だった。

小川洋子がこんな本を書いてくれたこと、ものづくり屋のはしくれとして、こんなにうれしいことはない。
町工場への愛情が、字面に にじみ出ている。

「ものを作る、という行為は、他のどんな動物にもない、人間が獲得した能力」で、すばらしい行為だというのだ。
「たとえ目立たない場所であっても、派手さはなくても、地道にものづくりに取り組んでいる」その姿が恰好いい、というのだ。
「自分の作ったものを町で見かけるとすぐに分かる、何であれ、仕事をする人間にとって、これほどうれしい体験があるだろうか」と。
「自分の作ったものが、お客さんの手に渡り、ちゃんと役目を果たしている瞬間を目撃する、そこには、金銭的な報酬を超越した恵みがある。 あぁ、自分はこういうことのために仕事をしてきたんだ、と思える瞬間」を 町工場の仕事人は持てるんだ、と。

“町工場のおやじ”として 半世紀のあいだ働いてきた甲斐を、小川洋子は、この本の中で称えてくれた気がする。