みうらじゅん、最後の講義 |
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1月2日深夜に再放送された みうらじゅんの「最後の講義」を、録画でみた。 2018年冬 実践女子大学の教室で行われた、みうらじゅんの「最後の授業」。 清野菜名が語りをしていた。
おかしな話だが、13歳年下の みうらじゅん を、ずっと私はライバル視してきた。 同じ京都生まれで、たぶん私以上に仏像好きで、自分が信奉する生き方と真逆の信念みたいなもの(それをちょっとバカにしていたのだが)を以って 人生を立派に歩んできて・・・
ほんとに些細なことなのだが、金色ケースに入った美術出版社刊の「日本の彫刻」を 彼も後生大事に持っていると知って、ライバル心が掻き立てられたことがあった、つい最近のことだ。 この本は、高校三年の時 母にねだって買ってもらった美術書で、表紙裏に拙い毛筆で「この写真集は私の宝です」と書かれている代物だ。
さて、みうらじゅんの「最後の講義」に感動した。 福島県福聚寺(ふくじゅうじ)の禅僧である 芥川賞作家の玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)氏は、こう評している。 みうらじゅんの「最後の講義」を聴いて、今の日本社会が求めている仏教が みうらじゅん という形で出てきたのでは、と。 「まっとうな仏教的見解を踏まえた、とてもおもしろい変奏曲です。」 まったく同感だ。
多少なりとも仏教の勉強をしてきたと自負する自分だが、みうらじゅんの「最後の講義」ほど すんなりと仏教的世界に没頭できたことは、いままでにない。 講義の聴衆(ほとんどが若者たち)をゲラゲラ笑わせながら 仏教の真髄を説き聞かせる、それも ウンウンと頷かせながら・・・ みうらじゅんの講義を聴いて救われた若者たちが、たくさんいたのではなかろうか。
蛇足になるが、この講義のいろんな学びの中で、ひとつだけ紹介しておこうと思う。 みうらじゅんが 自ら「アウトドア般若心経」と呼ぶ、“自分は他者にある” という、彼の尊い「気づき」について。
みうらじゅんは、4年ちょっとをかけて 般若心経の漢字262文字を 日本中の街まちを歩き回って写真に収め、般若心経を作った、寺院で撮ることを禁ずる「マイルール」に則って。 般若心経は、世界でいちばん短い経典 と言われている。 彼は言う。 元々違ったものであった一字一字の文字が こうやって集めて並べてみると、般若心経として読める、バラけると 全く意味をなさない 文字の列が。 一字である自分は、自分と 自分のまわりのもの(環境)も含めてはじめて 自分という奴であって、単体では 例えば喜多方ラーメンの「多」という文字だけの、意味を持たない つまり存在価値のない(輝きのない)状態、それが 自分と言うものじゃぁないかな。 この「アウトドア般若心経」をやってて、そう悟ったの、周りがあって はじめて 自分、と。
番組の最後に みうらじゅんがノートに書いた「絵つき一行文」は、こうであった。 「人生 暇つぶし」
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