1970年 |
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年のせいでしょうか、自分が生きた時代を 書き留めておきたくなりました。
特に、人生の転機となった 1970年のことを・・・
わたしは、戦後の貧しさを知っていても、戦争の記憶は まったくありません。
少年期までの 「自分が生きた時代」 は、与えられた課題をこなすのに汲々と過ごしました。
30歳から60歳に 「自分が生きた時代」 は、仕事に死んでいました。
14歳から24歳の10年間が、自分の頭で 「自分が生きた時代」 でした。
何かを残せるとしたら、この10年間の出来事であろうと思います。
この10年間に受けた強烈な時代のインパクトは、水俣病とベトナム戦争です。
この10年の最初は60年安保闘争、最後は70年安保闘争でした。
この期間の終点、1970年に、大阪万博がありました。
振り返って 大阪万博は、戦後日本の折り返し点だったと思います。
その直後にニクソンショック、1ドル360円の時代は終わりました。
固定相場に守られた日本経済の奇跡的な復興は、終わったのです。
水俣病とベトナム戦争については、自分なりに一度ちゃんと向き合いたいと、以前から思っていました。
水俣病もベトナム戦争も、恐ろしい悪の匂いを放っていて、当時のわたしの若い脳をいたたまれない状況に追い込みました。
その記憶が、時を経て、一歩引いた視点から正視する余裕を得て、もう一度考えてみたいとの思いに至りました。
でも どちらも、自分の皮膚感覚で語れるものではありません。
優れた先人の残した書物をしっかり読んで、想像力を逞しくするしかありません。
水俣病については、石牟礼道子著 『苦海浄土』 やユージン・スミスの 『ミナマタ』 などを読み返して、少しでも真実に迫りたいと思っています。
ベトナム戦争について。
手元に、開高健著 『ベトナム戦記』(1965年朝日新聞社刊)と、司馬遼太郎著 『人間の集団について ベトナムから考える』(1974年中央公論社刊)、それに
この3月 京都高島屋で催された<写真家 沢田教一展 その視線の先に>と題する展示会で求めた写真集 『戦場カメラマン沢田教一の眼』 が、置かれています。
自分なりに ベトナム戦争を、この三冊の書物で 無理やりくくりました。
無理なあがきですが、でも まんざら間違っていないと思います。
なぜなら、複雑奇怪の極みみたいなベトナム戦争は 点でしか見ることができず、しっかりした人の眼で見た点を通してしか 真実に迫れない、と考えるからです。
あのベ平連からは、真実は見えなかった。
加藤登紀子さんの友人、ベトナムの作曲家 チン・コン・ソンさんが、再会したおトキさんに語った言葉。
「ベトナムの人は忘れることと、許すことを選びます。心の平和のためには忘却が最良の方法だからです」
わたしは この言葉に、水俣病患者の究極の言葉 「のさり」 を重ねます。
ベトナム戦争も、当事者でない者には 想像力で理解するしかないのです。
ところで、60年安保闘争の熾烈なとき、たまたま中学校の修学旅行で東京を訪れていました。
上の姉の婚約者が東京の人で、修学旅行の自由時間に その義兄となる人に 東京の街を案内してもらっていました。
国会議事堂をみたいという わたしの希望で、その周辺まで連れて行ってもらったのですが、ちょうどあのフランスデモで あたりは騒然としていて、とても国会議事堂に近づけるものではありませんでした。
後で知ったのですが、その日 樺美智子さんが機動隊との衝突で亡くなっています。
60年安保を理解するには、当時のわたしは 幼すぎました。
ただ、樺美智子さんの死について マスコミが英雄扱いしたり、あるいは 大人たちが 「自分で自分を踏み殺した女子学生」 などと揶揄したりするのを、なにかおかしい、なにか間違っている、と強く思ったのを覚えています。
70年安保闘争のとき、わたしは修士論文作成に追われていました。
婚約中で、卒業後の身の振り方にも 頭が奪われていました。
ノンポリの最たる存在でした。
ただし、暴力には絶対反対の立場を貫いた、と自負しています。
そのあたりの感情の揺れは、このブログのVol.77 『銀漢よ とまれ』 で述べたので、省きます。
もし、4歳若かったら、感情的な性格の自分をコントロールできたか、危なかったと思います。
1945年生まれでよかった、そう心から思います、これも ‘時代の運命’ です。
さて、1970年のことです。
この年、わたしは ‘学びの時代’ を卒業して、社会人になりました。
結婚という、人生の最大イベントを経験した年でもあります。
三波春夫さんが歌った<世界の国からこんにちは>のメロディーが、耳から離れません。
大阪万博は、あの時代の大きな大きな出来事でした。
日本中がお祭り騒ぎに浮かれているころ、そして 自分自身 就職や結婚で忙殺されているころ。
水俣病患者やその家族は、うめくような苦悩の中を潜っていた。
アメリカ軍は、南ベトナムで枯葉作戦を展開していた。
山田洋次監督は、映画 『家族』 の中で 貧しい移住家族一家が長崎県の小さな島を離れ 北海道の開拓村まで旅する途中 大阪万博を訪ねるシーンを描きました、とても切ない場面でした。
結局 旅立ちの年1970年は、自分のことしか見えていなかった。
14歳から24歳の10年間が 自分の頭で 「自分が生きた時代」 だというのは、‘世界は自分のために’存在するかのように生きただけのこと。
ことに 1970年は、そうです。
1970年から50年後の2020年、東京でオリンピックが開催されます。
この年、私たち夫婦の金婚式の年でもあります。
無事 生きていたらの話ですが。
大方の人々の予想通り、2020年は大きな分岐点となるでしょう。
底の浅い好景気は、終わるでしょう。
見守るしかありません。
起きることを ことごとく、裏の出来事にも思いをいたすこころで 乗り切るしかありません。
猛省すべきだった1970年のことを、教訓として。
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